フ無産階級を新しい奴隷に陥しいれてしまう事実を指したのだ。
 かくして僕は、はなはだ遅まきながら、共産党との提携の事実上にもまた理論上にもまったく不可能なことをさとった。そしてまたそれ以上に、共産党は資本主義諸党と同じく、しかもより油断のならない、僕等無政府主義者の敵であることが分った。
 が、今ここに上海行きのこれだけの話ができるのは、共産党の先生等が捕まって、警察や裁判所でペラペラと仲間の秘密をしゃべってしまった、そのお蔭だ。それだけはここでお礼を言って置く。

    五

 それでも、僕にはまだ、ロシア行きの約束だけは忘れられなかった。そしてからだの恢復とともに、僕等自身の雑誌の計画を進めながら、ひそかにその時を待っていた。僕はロシアの実情を自分の目で見るとともに、さらにヨーロッパに廻って戦後の混沌としている社会運動や労働運動の実際をも見たいと思った。
 そこへ、突然、その年の十月頃かに、ロシアで(十九字削除)。それは共産党の方に来たのだが、こんどは僕もその相談に与かった。共産党ではそこへやろうという労働者がいなかったのだ。そして僕は、いずれまた上海の時のようなことになるのだろうとは思ったが、とにかく日本から出席する十名ばかりの中に加わることにきめた。しかし、あとでよく考えて見て、それも無駄なような気がした。また、共産党との相談にも、いろいろ面白くないことが起きた。そして、いよいよ二、三日中に出発するという時になって、僕一人だけそこから抜けた。
 翌年、すなわち去年の一月に、僕はまたこんどは月刊の『労働運動』を始めた。そしてほとんど毎号、その頃になってようやく知れて来たロシアの共産党政府の無政府主義者やサンジカリストに対する暴虐な迫害や、その反無産階級的反革命的政治の紹介に、僕の全力を注いだ。
 八月の末に、大阪で、例の労働組合総連合創立大会が開かれた。そしてそこで、無政府主義者と共産主義者とが初めて公然と、しかもその根本的理論の差異の上に立って、中央集権論と自由連合論との二派の労働者の背後に対陣することとなった。
 日本の労働運動は、この大会を機として、その思想の上にもまた運動の上にも、特に劃時代的の新生面を開こうとする[#「開こうとする」は底本では「開こうにする」]非常な緊張ぶりを示して来た。そこへこんどの(九字削除)の通知が来たのだ。たとえ短かい一時とはいえ、日本を去るのは今は実に惜しい。また、ほとんど寝食を忘れるくらいに忙がしい同志を置き去りにして出るのも実に忍びない。しかし日本のことは日本のことで、僕がいようといまいと、勿論みんなが全力を尽してやって行くのだ。そして僕は僕で、外国の同志との、しかもこんどこそは本当の同志の無政府主義者との、交渉の機会が与えられたのだ。行こう。僕は即座にそう決心するほかはなかった。

 上海では、前は、三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊った。同じホテルに長くいてはあぶないというので、そのたびに新しい変名を造っては、ほかのホテルへ移って行ったのだ。この時々変る自分の名を覚えるのは容易なことでなかった。まずその漢字とその支那音との、僕等にはほとんど連絡のない、というよりもむしろまったく違った二つのことを覚えなければならないのだ。が、それはまず無事に済んだ。けれども、支那語をちっとも知らない支那人というのも、ずいぶん変なものだ。が、それもまず、ボーイとは英語で、しかもほんの用事だけのことを話せばいいのだから、何とか胡麻化して済ました。
 しかし一度その変名で、失敗のようなまた過失の功名のようなことをした。それは、やはり上海にいた支那の国民党のある友人に会いたいということを、朝鮮のRに話した。Rはその友人の家へ行ったが、旅行中で留守なので、ただ僕が何々ホテルにいるということだけを書き置いて来た。友人は帰ってからすぐ僕のホテルへ来た。そして、きっと変名しているのだろうと思って、ただ日本人がいないかと尋ねた。すると、日本人はいないというので、さらに日本人らしい支那人はいないかと聞いたが、そんなのもいないと言う。で、仕方なしに旅客の名と室の番号を書き列ねた板の上を見廻した。
「はあ、これに違いない。」
 彼はその中のある名を見て、一人でそうきめて、その番号の室へ行った。そしてはたしてそこに僕を見出した。
「あんな馬鹿な名をつける奴があるもんか。」
 彼は僕の顔を見るとすぐ、笑いこけるようにして言った。
「何故だい。朝鮮人がつけてくれた名なんだけれど。」
 僕はその笑いこける理由がちっとも分らないので、真面目な顔をして聞いた。
「何故って君、唐世民だろう、あれは唐の太宗の名で、日本で言えば豊臣秀吉とか徳川家康とかいうのと同じことじゃないか。が、お蔭で僕は、それが君だってことがすぐ分ったんだ。本当の
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