ノ、さらに思想上の差違がだんだん深くなっていたのだ。そして堺や山川はMのことを僕に話さず、僕もまた二人にそのことは話さなかった。Mが鼻であしらわれたように、僕も鼻であしらわれるだろうことをも恐れたのだ。そしてもし事がうまく運べば、帰って来てから彼等に相談しても遅くないと思った。

 約束の十月になった。僕はひそかに家を出た。その時のことは前に言った。
 上海へ着いた時には、あらかじめ電報を打って置いたのだから、誰か迎いに来ていると思った。が、誰も来ていない。仕方なしに僕は、税関の前でしばらくうろうろしている間にしきりに勧められる馬車の中に、腰を下ろした。
 馬車は、まだ見たことはないがまったくヨーロッパの街らしいところや、話に聞いている支那の街らしいところや、とにかくどこもかも人間で埋まっているようないろんな街を通って、目的の何とか路何とか里というのに着いた。僕はこの何とか路何とか里という町名だけ支那語で覚えて来たのだ。
 尋ねる筈の家は二軒あった。同じ何とか里の中の、たとえば、十番と十五番とだ。最初は十番の方へ行った。そこにMが住んでいる筈なのだ。が、そんな人間はいないと言う。で、もう一軒の、そこに(三字削除)がある筈なのだ、十五番の方へ行ったが、そこでもそんな人間はいないと言う。また十番へ行った。返事はやはり同じことだ。そこでまた十五番へ行った。が、返事はやはり同じことだ。そして、こうして尋ね廻るたびごとに、出て来る男の語気はますます荒くなり、態度もますます荒くなるのだ。しかし、御者と何事か支那語で言い争っているようなそれらの男が朝鮮人であることだけはたしかだ。僕は、こんどは何と言われても、そこに坐りこむつもりで、また十番へ行った。
 十番では、初めて戸を開けてくれて、中へ入れた。僕は僕の名とMの名とを書いて、四、五人で僕を取りかこんでいる朝鮮人にそれを渡した。すると、その一人が二階へ上って行って、しばらくしてもう一人の朝鮮人と一緒に降りて来た。見ると、それは船の中で、日本人だと言いまたそれで通って来た、そして僕がかなり注意して来た男だ。
「やあ君か。君なら僕は船の中で知っている。」
 僕は初めて日本語で、馴れ馴れしく彼に言葉をかけた。こうした調子で、彼はいつもデッキで、ほかの日本人と話ししていたのだ。もっとも僕は彼と話をすることはことさらに避けてはいたが。しかしもうこの家にいるとなれば、僕の予想も当ったのだし、何の遠慮することもなくなったのだ。
 しかし彼は、船の中での日本人に対する馴れ馴れしさを見せるどころでなく、反対に僕の方からのこの馴れ馴れしさをまずその態度で斥けてしまった。そして僕が腰かけている前に突っ立ったまま、僕の言葉なぞに頓着なく、まるで裁判官のような調子で僕を訊問しはじめた。
「君はどうしてMを知っているんです。」
 僕は、はあ始まったな、と思いながら、机の上に頬杖をついて煙草をふかしながら、ありのままに答えた。こうしている間に、きっとまだ電報を受取っていないMが、どこかからそっと僕をのぞいてでもいるんじゃないかと思いながら。
 しかし訊問はなかなか長かった。そして裁判官の調子もちっとも和らいでは来なかった。
 そこへ、ふいと表の戸が開いて、Mがはいって来た。そしてあわてて僕の手を握って、ポカンとしているみんなに何か言い置いて、僕を二階へ連れて行った。

    四

「いや、どうも失礼。実は、日本人でここへはいって来たのはあなたが初めてなんですよ。それに、あなたが来るということは僕とLとのほかには誰も知らないんだし、僕もまだあなたからの電報は受取ってなかったんですよ。」
 Mは、さっきの裁判官ほどではないが、かなりうまい日本語で、弁解しはじめた。で、怪しい日本人がはいって来たというので、この朝鮮人町では大騒ぎになったのだそうだ。そして、まず僕を十番の家へ入れたあとで、御者に聞いて見ると、日本の領事館の前から来たというので、(また実際税関の前はすぐ領事館なのだが)ますます僕は怪しい人間になって、一応調べて見た上でもしいよいよ怪しいときまれば殺されるかどうかするところだったそうだ。それにまた、どうしたものか、Mの名の書き方を僕は間違えていた。二字名の偽名を二つ教わっていたのを、甲の方の一字と乙の方の一字とを組合せたので、それがMの本当の、しかもあまり人の知らない号になった。犯罪学の方ではよく出て来る話だが、偽名には大ていこうしたごく近い本当の何かの名の連想作用があるものなのだ。で、Mはその日本人が僕の名をかたって、自分を捕縛しに来た日本の警察官だとまずきめた。そしてここへ一人で警官がはいって来る筈はないから、きっともっと大勢どこかに隠れているのだろうと思って、あちこちとあたりを探して見た。が、それらしいもの
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