「いのだ。が、その前に、正月号の雑誌に約束した原稿と、やはり正月に出す筈のある単行本とを書いてしまわなければならない。そんなことで愚図愚図している間に、もう暮れ近いことだ、ようやく貰って来た金が半分ばかりに減ってしまった。そして、それをまたようやくのことで借り埋めて、十二月十一日の晩ひそかに家を脱け出た。
二
家を脱け出ることにはもう馴れ切っている。しかしそれも、尾行をまいて出ることがすぐ知れていい時と、当分の間知れては困る時とがある。前の場合だと何でもないが、後の場合だとちょっと厄介だ。
去年の夏日本から追放されたロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時には、そのあとで僕は三日ばかり時々大きな声で一人で英語で話していた。が、二、三日ならそんなことでもして何とか胡麻化して行けるが、一週間も十日も胡麻化そうとなるとちょっと困る。
一昨々年の十月、僕はひそかに上海へ行った。その時には、上海に着いてしまうまでは、僕が家を出たことをその筋に知らせたくなかった。で、夜遅く家を出たのであったが、その翌日から僕は病気で寝ているということになった。しかし大して広い家でもなし、それに往来から十分のぞかれる家でもあったので、尾行どもはすぐ疑いだした。そして四つになる女の子をつかまえて、幾度もききただして見た。そしてその後、その尾行の一人が僕にこんな話をした。
「魔子ちゃんにはとても敵いませんよ。パパさんいる? と聞くと、うんと言うんでしょう。でも可笑しいと思って、こんどはパパさんいないの? と聞くと、やっぱりうんと言うんです。おやと思いながら、またパパさんいる? と聞くと、やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどは、パパさんいないの? いるの? と聞くと、うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間どっちともはっきりしませんでしたよ。」
こんどだって、駒込の家はやはり狭いし、そとから十分のぞかれる。すぐ前のあき地の小さな稲荷さんの小舎の中にいる尾行どもには、家の中の話し声を聞いているだけでも、いるかいないかは大てい知れよう。
もっとも、四つの魔子は六つになった。それだけ利口にもなっている筈だ。そして女房は、子供をだますのは可哀そうだからと言って、よく
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