ようじゃないか。」
と両隣りの堺と山川とに相談して、コツコツとうしろの板を叩いた。向うでもすぐにやはりコツコツとそれに応じた。
「おい、何で来たんだい?」
「お前さんは?」
「泥棒さ。」
「じゃ頼もしいわね。わたしはどうろぼうよ[#「どうろぼうよ」に傍点]。いくら食ったの?」
「たった半年だ。君は?」
「わたしの方は二週間よ、すぐだわ。こんど出たら本当に堅気になろうと思ってるの。お前さん出たらやって来ない? うちはどこ?」
というような話で、でたらめの所や名を言い合って、とうとう出たら一緒になろうという夫婦約束までもしてしまった。
「大ぶお安くないな。だが、あのどうろぼう[#「どうろぼう」に傍点]というのは何だい?」
「さあ、僕にもよく分らないがね。」
と堺と話している中へ、山川もその詮議に加わって、ようやくそれが道路妨害の道路妨だということが分った。そして、
「泥棒に道路妨はいいな。」
と三人で大笑いした。さすがの彼女もあからさまにその本職を言いかねたのか、それともほんの語呂合せのいたずらをやったのか。
また、未決監から裁判所へ喚び出される。その他にも僕はよく、余罪があって、既決監からも裁判所へ呼び出された。大がいは馬車でだが、巣鴨からは歩いたり車に乗せられたりした。
あの赤い着物を着て、編笠を被って、素足に草鞋をはいて、腰縄をつけられて引っぱられて行くさまは、たしかに道行く婦女子等をして顔そむけしめ唾はかしむるに足るものであろう。しかし向うの思わくなぞはどうでもいい。こっちはただ、こっちの顔の見えないのを幸いに、向うの眼のさめるような着物の赤い色と、白い生々しい柔しい顔の色とに黙って眼じりを下げていさえすればいいんだ。
西洋の野蛮国たるロシアでは、「乞食と囚人とは馬鹿にするな、いつそれが誰の運命になろうものでもない」というような意味の諺があって、囚人が送らるる時なぞには、百姓の婆さんや娘さん達が争って出て来て、牛乳やパンや時とすると銅貨までも施してくれる。そして頬にキッスして「天にまします吾等の神よ、このいと憐れなる汝の子にことさらのお恵みと幸せとを与えたまえ」とお祈りをしてくれる。というような醜態は、東洋の君子国たる日本では、とても望まれない。ましてや道路妨君のようには、「頼もしい人だ」などとは誰一人思っちゃくれない。
それでいいんだ。こっちはただ諸君の姿さえ拝まして貰えればいいんだ。久しぶりでそとへ出て、見るものがすべて美しい。というよりは珍らしい。すべてがけばけばしく生々として見える。ことに女は、女でさえあれば、どれもこれも、みな弁天様のように美しく見える。
馬車では、僕はいつも、前か後ろかの一番はじに置かれた。このはじにいなければそとはよく見えない。横はよろい戸になっていて、前後にだけ小さな窓の金あみが張ってある。僕は馬車に乗っている間、始めから終りまで、この金あみに顔を押しつけて、額に赤く金あみのあとがつくほどに、貪るようにしてそとを眺めた。
面会に来る女の顔も美しい。もう幾年も連れ添って見あきるほど見た顔だのに、黙ってその顔を眺めているだけでもいい気持だ。眼のふちの小皺や、まだらになった白粉のあとまでが艶めかしい趣きを添える。
僕の故郷[#「僕の故郷」は太字]
こんなちょいちょいしたエピソードのほかには、うちにいる間は、読書か思索か妄想かのほかに時間の消しかたがない。
読書にも飽き、思索にも飽きて来ると、ひとりでに頭が妄想に向う。それも、そとの現在のことはいっさい例の無意識的にあきらめて、考えても仕方のない遠い過去のことか、出獄間近になれば出てからの将来のことなどが思い浮べられる。
現在の女房のことでも、面会に来るか手紙が来るかの時でもなければ、それも二カ月に一度ずつしかないのだが、滅多には思い出さない。そして古い女のことなぞがしきりに思い出される。
元来僕には故郷というものがない。
生れたのは讃岐の丸亀だそうだ。が、生れて半年経つか経たぬうちに東京へ来た。そして五つの時に父や母と一緒に越後の新発田へ逐いやられた。東京では父は近衛にいた。うちは麹町の何番町かにあった。僕はその近衛連隊の門の様子と、うちの大体の様子と、富士見小学校附属の幼稚園の大体の輪画とのほかには、ほとんど何の記憶もない。
僕の元来の国、すなわち父祖の国は、名古屋を西にさる四、五里ばかりの津島に近いある村だが、そこには自分が覚えてからは十四の時に初めてちょっと伯父の家を訪うて、その翌年名古屋の幼年学校にはいってから時々ちょいちょい遊びに行ったに過ぎない。少しも自分の国というような気はしない。本籍はそこにあったのだが、その後東京の自分の住んでいた家に移した。
ただ越後の新発田だけには、五つから十五までのまる
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング