なくっても、すでに僕の方で向うに「弟子入り」していたのだった。その後僕は、「野獣」と題して、僕の雑誌に彼を歌ったことがあった。
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また向う側の監房で荒れ狂う音がする、
怒鳴り声がする、
歌を歌う、
壁板を叩いて騒ぎ立てる。
それでも役人は知らん顔をしてほおって置く。
いくら減食を食っても、
暗室に閉じこめられても、
鎖づけにされても、
依然として騒ぎ出すので、
役人ももう手のつけようがなくなったのだ。
まるで気ちがいだ、野獣だ。
だが僕は、この気ちがい、この野獣が、
羨やましくて仕方がない。
そうだ! 僕はもっと馬鹿になる修業を積まなければならない。
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獄死はいやだ[#「獄死はいやだ」は太字]
囚人で羨やましかったのは、この野獣と、もう一つは小羊のような病人だった。
巣鴨の病監は僕等のいたところからは見えなかったが、東京監獄でも千葉でも、運動場へ行く道には必ず病監の前を通った。普通の家のような大きな窓のついた、あるいは一面にガラス戸のはまった、風通しのよさそうな、暖かそうな、小綺麗な建物が、ほとんど四季を通じて草花や何かの花に囲まれて立っている。そしてその花の間を、呑気そうに、白い着物を着た病人がうろついている。
僕は本当にどうにかして病人になりたいと思った。もし五年とか、十年とか、あるいは終身とかいうような刑ではいった時には、僕はこの病人のほかには僕の生きかたがあるまいとすら考えた。肺病でもいい。何でもいい。とにかく長くかかる病気で、あすこにはいらなくちゃならんと思った。
が、一度、巣鴨でこの病監にはいることができた。前に話した徒歩で裁判所へ行く道で、つまずいて足の拇指の爪をはいだ。そこにうみを持ったのだった。
巣鴨の病監は、精神病患者のと、肺病患者のと、普通の患者のと、三つの建物に分れている。僕はその最後のにはいった。いい加減な病院の三等や二等よりもよほどいい。僕のは三畳の室で、さすがに畳も敷いてある。そこへ藁布団を敷いて、室一ぱいの窓から一日日光を浴びて、そとのいろんな草花を眺めながら寝て暮せばいいんだ。看護人には、囚人の中から選り抜きの、ことに相当の社会的地位のあったものを採用する。僕には早稲田大学生の某芸者殺し君が専任してくれた。
かつて幸徳は、この病監にはいって、ある看守を買収して、毎朝『万朝報』を読んで、毎晩一合か二合かの晩酌をやっていたそうだ。
僕ももし酒が飲めれば、葡萄酒かブランデーならいつでも飲めた。それは看護人が薬室から泥棒して来るのだった。
医者も役人ぶらずによく待遇してくれた。看守もみな仏様で、僕はほとんど自分が看守されているのだという気持も起らなかった、ぐらいによく謹しんでいられた。
御馳走も普通の囚人よりはよほどよかった。豚汁が普通には一週間に一回だったのが二回あった。それに豚の実も普通よりは数倍も多かった。
僕はこの病監で、自分が囚人だということもほとんど忘れて一カ月余り送った後に、足の繃帯の中に看護人等の数本の手紙を巻きこんで出獄した。
しかし、これがほんのちょいと足の指を傷つけたぐらいのことだから、こんな呑気なことも言って居られるものの、もしもっと重い病気だったらどんなものだろう。僕は先きに肺病でもいいから病監にはいりたいと言った。今僕は、現に、千葉のお土産としてその病気を持って来ている。もうほとんど治ってはいるようなものの、今後また幾年かはいるようなことがあって、再び病気が重くなって、病監にはいらなければならぬようになったらどうだろう。
千葉では、僕等が出たあとですぐ、同志の赤羽巌穴が何でもない病気で獄死した。その後大逆事件の仲間の中にも二、三獄死した。今後もまだ続々として死んで行くだろう。
僕はどんな死にかたをしてもいいが、獄死だけはいやだ。少なくとも、あらゆる死にかたの中で、獄死だけはどうかして免かれたい。
収賄教誨師[#「収賄教誨師」は太字]
獄中で一番いやなのは冬だ。
綿入れ一枚と襦袢一枚。シャツもなければ足袋もない。火の気はさらにない。日さえ碌には当らない。これで油っ気なしの食物でいるのだから、とても堪るものではない。
体操をやる、壁を蹴る。壁にからだを打つける。運動に出れば、毎日三十分ずつ二回の運動時間をほとんど駈足で暮す。しかしそんなことではどうしても暖かくならない。
冷水摩擦をやる。しかもゆうべからの汲み置きのほとんどいつも氷っている水だ。この冷水のほかにはほとんどまったく暖をとる方法がない。それで朝起きるとまず摩擦をやる。夜寝る前にも、からだじゅうが真赤になるまでこすって、一枚こっきりの布団に海苔巻きになって寝る。かしわ餅になって、と人はよく言うが、そんなことで眠れるものではない。
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