、友達の乞食の父はなかった。そのために僕は、軍人というものの本当の性質が分るまでには、ずいぶん余計な時間を費やした。それがその時の僕にどれほどに口惜しかったか。
が、当時のこの創作欲は今に到ってまだ果されない。というよりはむしろほとんど忘れ果てて、社会評論とも文学評論ともつかない妙な評論書きになってしまった。そして今ではまた、こんな甘い雑録に、ようやく口をぬらしている。
監獄人[#「監獄人」は太字]
しかし、今だってまだ、多少の野心のないことはない。現にこの「獄中記」のごときは、この雑誌に書く前には、「監獄人」とか「監獄でできあがった人間」とかいうような題で、よほどアンビシャスな創作にして見ようかという気もあったのだ。
僕は自分が監獄でできあがった人間だということを明らかに自覚している。自負している。
入獄前の僕は、恐らくはまだどうにでも造り直せる、あるいはまだ碌にはできていなかった、ふやふやの人間だったのだ。
外国語学校へはいった初めの頃には、大将となって何とかすることができなければ、敵国に使して何とかするというような支那の言葉に囚われて、あるいは外交官になって見ようかという多少の志がないでもなかった。また、学校を出る当座には、陸軍大学の教官となって、幼年学校時代の同窓等に、しかもその秀才等に「教官殿」と呼ばして鼻を明かしてやろうかというような子供らしい考えがないでもなかった。学校を出てからも、僕の旧師でありかつ陸軍でのフランス部の[#「フランス部の」はママ]オーソリティであった某陸軍教授を訪ねて、陸軍大学への就職を頼んだこともあった。その話がよほど進行している間に、しかもその教授の運動の結果を聞きに行く筈の日の数日前に、電車事件で投獄された。そしてこの事件の投獄とともにその後の運命はきまってしまった。
そればかりではない、僕の今日の教養、知識、思想性格は、すべてみな、その後の入獄中に養いあげられ、鍛えあげられたと言ってもよい。二十二の春から二十七の暮れまでの獄中生活だ。しかも、前に言ったように、きわめて暗示を受けやすい心理状態に置かれる獄中生活だ。それがどうして、僕の人間に、骨髄にまでも食い入らないでいよう。
故郷の感じを初めて監獄で本当に知ったように、僕の知情意はこの獄中生活の間に初めて本当に発達した。いろいろな人情の味、というようなことも初めて分った。自分とは違う人間に対する、理解とか同情とかいうようなことも初めて分った。客観はいよいよますます深く、主観もまたいよいよますます強まった。そしていっさいの出来事をただ観照的にのみ見て、それに対する自己を実行の上に現すことのできない囚人生活によって、この無為を突き破ろうとする意志の潜勢力を養った。
僕はまた、この「続獄中記」を、「死処」というような題で、僕が獄中生活の間に得た死生問題についての、僕の哲学を書いて見ようかとも思った。現に、一と晩夜あけ近くまでかかって、その発端だけを書いた。
東京監獄で押丁を勤めていて、僕等被告人の食事の世話をしていた、死刑執行人についての印象。友人等の死刑後のその首に残った、紫色の広い帯のあとについての印象。千葉監獄在監中の、父の死についての印象。一親友の死についての印象。また、牢獄の梁の上からぽたりぽたりと落ちて来る蠅の自然死についての印象。一同志の獄死についての印象。一同志の出獄後の狂死についての印象。その他数え立てればほとんど限りのない、いろいろな深い印象、というよりはむしろ印刻が、死という問題についての僕の哲学を造りあげた。
実際僕は、最後に千葉監獄を出た時、初めて自分がやや真人間らしくなったことを感じた。世間のどこに出ても、唯一者としての僕を、遠慮なく発揮することができるようになったことを感じた。そして僕は、僕の牢獄生活に対して、神の与えた試練、み恵み、というような一種の宗教的な敬虔な感念を抱いた。
牢獄生活は広い世間的生活の縮図だ。しかもその要所要所を強調した縮図だ。そしてこの強調に対するのに、等しくまた強調された心理状態をもって向うのだ。これほどいい人間製作法が他にあろうか。
世間的生活は広い。いくらでも逃げ場所はある。したがってそこに住む人間の心はとかくに弛緩しやすい。本当に血の滴るような深刻な内面生活は容易に続け得られない。その他種々なる俗的関係の顧慮もある。いっさいを忘れる種々なる享楽もある。なまけ者にはとうていその人間は造れない。そして人間は元来がなまけ者にできているのだ。
僕は最後に出獄して、まず世間を見て、その人間どもの頭ばかり大きく発達しているのに驚かされた。頭ばかり大きく発達しているのはなまけ者の特徴だ。彼等はどんな深刻なことでも考えると言う。しかしその考えや言葉には、その表に見える
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