不義を見てそれと闘う気を起さないものは、全然芸術家でもなければ、又、全然人間でもない。」
 憎悪や反抗に美があるかないかの問題などはどうでもいい。しかし此の憎悪や反抗に与《くみ》しないものは「全然芸術家でもなければ、又、全然人間でもない」のだ。此の本間君の思想は、其の後二ヵ年間に、どれほどの進歩があったかは知らない。しかし兎に角此の本間君が、日本に於ける民衆芸術論の最初の提唱者であったのだ。

       四

 本間久雄君は何事にも篤志なしかし無邪気な学者である。だから君は、エレン・ケイの「休養的教養論」を一読して、至極殊勝な篤志を起したものの、却って安成貞雄君に散々に遣《や》っつけられたように、へまな民衆芸術論の説きかたをしたのである。
 エレン・ケイの論旨は、要するに、スエデンの青年社会民主党に対して、
「ひまな時間を増やす事の為めに闘うと共に、其のひまな時間の悪用されないように休養的教養を獲得しなければならない。
「何事に於ても旧社会よりより善き新社会を造る責任を帯びている青年等の間に、又其の青年等によって、階級戦争(class war)と共に、絶えず教養戦争(culture war)をも営ませなければならない」
 と勧告したものである。娯楽にも善し悪しがある。肉体上及び精神上の更新を齎《もた》らさない娯楽は有害である。休養的教養(recreative culture)とは、先ず諸種の快楽を識別する能力を意味し、次ぎに更に新しき力を齎らす生産的な快楽を選んで不生産的な快楽を斥《しりぞ》ける意志を意味する。そしてエレン・ケイは猶続けて云う。
「いずれの階級に於ても、大多数の人々は空虚な快楽に耽《ふけ》っている。しかし、斯くの如きは、他のいずれの階級に於ても労働者階級に於けるほど甚だしい危険はない。なぜなら、劣等な快楽によって精神上に傷害を蒙むるのは、いずれの階級のいずれの個人にも等しく有害である事は勿論であるが、其の掌中に共同団体の近い将来の諸問題を握っている第四級民が甚だしく此の傷害を蒙むるのは、共同団体の全体にとって又其の将来にとって、更に遥かに有害である。
「労働者階級は、其の仕事の為めの力を強大にする為めに、有らゆる手段を、快楽の手段をすらも用いなければならない。
「されば、労働者等が現に持っている僅かな余暇が、又彼等が獲得せんと欲しているそれ以上の
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