べき前置詞に就いての問題である。本間久雄君はそれを「の為めの」即ち for と解釈した。中村星湖君はそれを「から出た」即ちフランス語の de part と解釈した。又富田砕花君は「の所有する」即ち of と解釈しているらしい。しかしこれは、甞《か》つて本当の意味の民主政治を、民衆によって民衆の為めに造られ而して民衆の所有する政府、即ち Government by the people, for the people and of the people と云ったように、先きの三君のを合せて、民衆によって民衆の為めに造られ而して民衆の所有する芸術、即ち Art by the people, for the people and of the people と云わなければ精確ではないのだ。そして其の中の「民衆によって」若しくは「民衆から出た」と云うのが最も肝心である事は勿論である。田中純君は正しく云う。「民衆自らの造り出した芸術はそれ自身民衆の為めの芸術であり、民衆の所有する芸術であり得る。真実に十分に民衆の為めの芸術と云い得るものは、民衆自らの産み出した芸術であらねばならない。」
幸いに、日本にはまだ、「今日有るがままの劇を、何劇でも構わず、平民に与える」と云う民衆芸術論はない。ただ実際方面では、特に平民労働者の為めに催すと云う従来の演芸会は、総《すべ》て此の種のものであった。又、若し島村抱月君が、多少そう云う風に臭わしているように、其の芸術座の演劇が民衆芸術であるなどと敢て云うならば、それは矢張り殆ど此の種のものである。
三
僕は先きに、民衆芸術論は日本ではまだ、或る理由からさほど明瞭に紛々としていない、と云った。其の理由と云うのは、民衆芸術論の謂わゆる提唱者等が、まだ本当に民衆的精神を持っていない事、従って又今日の芸術に対する民衆的憤懣を持っていない事である。斯くして、彼等の議論は極めて曖昧である。微温である。曖昧微温な民衆側の議論は非民衆側の直截熱烈な議論を誘《いざ》なわない。
甞つて僕は、歴史を一貫する、そして今日では資本家階級と労働者階級との形式によって現わされている、彼の「征服の事実」を説いて、
「敏感と聡明とを誇ると共に、個人の権威の至上を叫ぶ文芸の徒よ。諸君の敏感と聡明とが、此の征服の事実と、及びそれに対する反抗とに触れない限り、
前へ
次へ
全14ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング