だ続く。僕はそれもすっかり話してしまわなければ、僕の責めは済まないだろう。で、もっと話を続けて行こう。)
彼女はふり返った。
僕はその前夜彼女が寝ている伊藤をにらみつけた、その恐ろしい殺気立った顔を見ると思いのほか、彼女がゆうべ僕に泣きついて来た時のその顔よりももっと憐れな顔を見た。
「許して下さい。」
彼女がふり向くと同時に発したこの言葉が僕には意外だった。
しかし、もうこうなった以上、僕は彼女を許すことができなかった。少なくともその瞬間の僕は、何という理窟はなしに、ただ彼女を捕まえてそこへ叩きつけなければやまなかった。
僕は起きあがった。そして逃げようとする彼女を追うて縁がわまで出た。彼女はそこの梯子を走り下りた。僕も続いて走り下りた。そして中途で僕は彼女の背中へ飛び降りるつもりで飛んだ。が、彼女の方がほんの一瞬間だけ早かった。彼女は下の縁がわを右の方へ駆けて、七、八間向うの玄関のところからさらに二階の梯子段を登った。僕は梯子段を飛び下りた時から、急に足の裏の痛みと呼吸のひどく困難になって来たのを感じながら、なお彼女を追っかけて行った。
その二階は、僕の居室の方の二階とは棟が違っていて、大きな二つの室の奥の方が、その夜は宿の親戚の女どもの寝室になっていた。彼女はその手前の室の中にはいって、紫檀の茶ぶ台の向うに立ちどまった。
「許して下さい。」
彼女は恐怖で慄えながらまた叫んだ。
が、僕はその茶ぶ台の上を踏み越えて彼女を捕まえようとした。彼女はまた走り出した。その奥に寝ていた女どもは目をさまして、互いにかじりついて、僕等の方を見つめながら慄えていた。
僕は呼吸困難で咽喉がひいひい鳴るのを覚えながら、なお彼女を追っかけて行った。彼女はさっきの梯子段を降りて、廊下をもとの方へ走って、もとの二階へは昇らずに、そこから左の方へ便所の前に折れた。そしてその折れた拍子に彼女は倒れた。僕も彼女の上に重なって倒れた。
僕はそれから幾分たったか知らない。ふと気がついて見ると、血みどろになって一人でそこに倒れていた。呼吸はもう困難どころではなくほとんど窮迫していた。
「これはいけない。」
と僕は思いながら、ようやく壁につかまって起ちあがって、玄関の方へよろめいて行った。玄関のそばには女中部屋があった。僕は女中を起して医者を呼びにやろうと思ったのだ。が、その女中部屋の前で僕はまた倒れてしまった。そして倒れると同時に、その板の間が血でどろどろしているのを感じた。
女中は呼んでも返事がなかった。みんな二階の親戚の客におどかされて、一緒に奥の方へ逃げこんでいたのだ。しばらくして、その親戚の一人の年増の女がおずおずとそばへ来た。
「あのね、すぐ医者を呼んで下さい。それから東京の伊藤のところへすぐ来るように電話をかけて下さい。それからもう一つ、神近の姿が見えないんだが、どうかすると自殺でもするかも知れないから、誰か男衆に海岸の方を見さして下さい。」
僕はこれだけのことを相変らず咽喉をひいひい鳴らしながら、ようやくのことで言った。そして僕は煙草を貰って、その咽喉の苦しさをごまかしていた。傷はピストルではなく、刃物だということもその時にようやく分った。
やがて、どやどやと警官どもがはいって来た。そしてその一人はすぐと僕に何か問い尋ねようとした。
「馬鹿! そんなことよりもまず医者を呼べ。医者が来ない間は貴様等には一言も言わない。」
僕はその男をどなりつけながら、頭の上の柱時計を見た。三時と三十分だった。
「すると、眠ってからすぐなのだ。」
と僕は自分に言った。
それから十分か二十分かして、僕は自動車で、そこからいくらもない逗子の千葉病院に運ばれた。そしてすぐ手術台の上に横たわった。
「長さ……センチメートル、深さ……センチメートル。気管に達す……。」
院長が何か傷の中に入れながら、助手や警官等の前で口述するのを聞きながら、僕は、
「きょうの昼までくらいの命かな」
と、ちょっと思ったまま、そのまま深い眠りに陥ってしまった。
底本:「大杉栄全集第十二巻」現代思潮社
1964(昭和39)年12月25日
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:kompass
校正:小林繁雄
2002年1月18日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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