いた。というよりも、彼女や僕が持って行ったわずかの金も費い果して、彼女は宿料の支払を迫られる僕は帰る旅費もなしというような始末になって、二人でもう三日も四日も大毎からの送金を待っていたのだった。二人は、それが駄目と分ると、あちこち、金をかしてくれそうなところへ手紙や電報を出した。が、それはまるで返事がなかったり、来てもいい返事は一つもなかった。
 その間に僕は、神近もその生徒の一人だった、フランス語の講義の日を欠かした。そして宮島が、その子供の誕生日の祝いとして、その三人の先輩の宮田修氏と生田長江氏と僕とを招いた、その御馳走をも欠かした。この御馳走には神近も連なる筈だった。神近や宮島には、僕等二人が御宿でどんなに困っているかは分らなかった。神近はそれをいろんな意味で怨んだ。そして、ことに酒でも飲めば、非常に人と同感しやすい宮島は、僕がその招待を欠いたことによってその人一倍強い自尊心を傷つけられた上に、ますます神近に同情した。僕は神近への宮島の同情がこれによって始まったなぞとは決して言わない。しかし、神近と宮島とが、同じ一つのことについて、僕等二人に対する怨みというか憎しみというかを合致させたのは、ほぼこの辺からじゃなかろうかと思う。
 そして、もう百方策尽きているところへ、神近から金を送ろうかと言って来た。
「あなたが困るのは私が困るも同じことだ。野枝さんが困って、そのためにあなたが困れば、私もまたやはりそのために困るのだ。だから、誰のため彼のためということはいっさい言わずに、お送りしましょう。」
 神近がこう言って来る腹の中には、僕に早く帰って欲しいという一念があることは明らかなのであるが、しかし彼女には、こういった寛大な姉さんらしい気持が多分にあったことも同じように明らかだった。そして僕は今はこの寛大にたよるほかに道はなかった。
 神近からは何でも二十円ばかり送って来た。そして僕は、宿屋の方の多少の払いをして、僕一人急いで東京に帰った。神近から少しでもまとまった金をかりたのはこれが初めてなのだ。
 伊藤はとうとう困りぬいて、子供を近村のものに預けて、僕の下宿にころがりこんで来た。そして二人は、もう四、五カ月の間、ますます困窮しつつ、一緒に愚図愚図していた。が、いよいよこんどの僕の葉山行きを期として、二人の別居を実行することにきめたのだった。
 神近は僕等のこの別居の計画を非常に喜んだ。しかし彼女にはまだ、その葉山では、僕と伊藤とが一緒にいるのではあるまいかと疑われたのだ。
「いつ立つ? 二、三日中! それじゃ、たった一つ、こういうことを約束してくれない? あなたが出かける時、私を誘うこと。そして一日、葉山で遊ぶこと。」
 ようやく疑いの晴れた彼女の願いは何でもないことだった。が、その頃の僕の気持では、彼女が事ごとにひつこく追求したり要求したりすることが、大ぶうるさくなっていた。そして、こんな何でもない願いでも、そのあとに、「ね、あなた、いいでしょう、いいでしょう」という、その「いいでしょう、いいでしょう」がうるさくて堪らなかった。が、それを拒絶すれば事がますますうるさくなるのだし、仕方がないから、ただ「うん、うん」とばかりいい加減な返事をして置いた。

   三

「私、平塚さんのところまで行きたいわ。」
 いよいよ出かける日の前日になって、ふいと伊藤が言いだした。らいちょうは、その頃、奥村君と一緒に茅ヶ崎[#底本では「茅ケ崎」]にいた。
 伊藤はその家を出る時すでにあらゆる友人から棄てられる覚悟でいた。しかし、長年の友情を自分から棄てることもできなかったものと見えて、その家を出た日に野上弥生子君を訪い、そしてらいちょうにはハガキを出した。が、その後この二人の友人が悪罵に等しい批評を彼女の行為の上に加えているのを見て、彼女もまったくその友情を棄てていたようだった。けれどもまた、長い間の親しい友人に背くということはさびしい。彼女はよく彼女等との古い友情をなつかしんでいた。
「よかろう。それじゃ茅ヶ崎[#底本では「茅ケ崎」]まで一緒に行って、葉山に一晩泊って帰るか。」
 僕は彼女の心の中を推しはかって言った。しかし、らいちょうの家では、僕等はひる飯を御馳走になって二、三時間話していたが、お互いに腹の中で思っている問題にはちっとも触れずに終った。
「いいわ、もうまったく他人だわ。私もう、友達にだって理解して貰おうなどと思わないから。」
 彼女はその家を出て松原にさしかかると、僕の手をしっかりと握りながら言った。彼女はその友人に求めていたものをついに見出すことができなかったのだ。
 葉山に泊った翌朝は、もう秋も大ぶ進んでいるのに、ぽかぽかと暖かい、小春日和となったようないい日だった。
「きょう一日遊んで行かない?」
 僕は朝飯が済むと彼女に言った。
「ええ、だけど、お仕事の邪魔になるでしょう。」
 もう帰る仕度までしていた彼女はちょっと意外らしく言った。
「なあに、こんないい天気じゃ、とても仕事なぞできないね。それより、大崩れの方へでも遊びに行って見ようよ。」
「ほんとにそうなさいましな。せっかくいらっしたんですもの。そんなにすぐお帰りじゃつまりませんわ。」
 年増の女中のおげんさんまでもそばからしきりと彼女に勧めた。
 大崩れまで、自動車で行って、そこから秋谷辺まで、半里ほどの海岸通をぶらぶらと歩いた。その辺は遠く海中にまで岩が突き出て、その向うには鎌倉から片瀬までの海岸や江の島などを控えて、葉山から三崎へ行く街道の中でも一番景色のいいところだった。それに、もう遅すぎるセルでもちょっと汗ばむほどの、気持のいいぽかぽかする暖かさだった。僕等二人は実際、溶けるような気持になって、その間をぶらぶらと行った。正午にはいったん宿に帰って、こんどはおげんさんを誘って、すぐ前の大きな池のような静かな海の中で舟遊びをした。そしていい加減疲れて、帰って湯にはいって、夕飯を待っていた。
 そこへおげんさんがあわててはいって来て、女のお客様だと知らせた。そして僕が立って行こうとすると、おげんさんの後にはもう、神近がさびしそうな微笑をたたえて立っていた。
 伊藤はまだ両肌脱いだまま鏡台の前に坐って、髪を結いなおすかどうかしていた。神近の鋭い目がまずその方をさした。
「二、三日中っておっしゃったものだから、私毎日待っていたんだけれど、ちっともいらっしゃらないものだから、きょうホテルまで行って見たの。すると、お留守で、こちらだと言うんでしょう。で、私、その足ですぐこちらへ来たの。野枝さんが御一緒だとはちっとも思わなかったものですから……」
 神近は愚痴のようにしかしまた言いわけのように言った。
「寄ろうと思ったんだけれど、ちょっと都合がわるかったものだから……」
 と僕も苦しい弁解をするほかはなかった。
 あしたは帰るんだからというので、伊藤と僕とは、いろいろ甘そうな好きな御馳走を註文してあった。僕はおげんさんにそれをもう一人前ふやすように言った。それから食事の出るまでの三十分間がほどは、ほとんど三人とも無言の行でいた。僕には何となくいよいよもうおしまいだなという予感がした。
 その年の春、二度目の『近代思想』を止すと同時に、僕は一種の自暴自棄に陥っていた。先きに僕は知識階級の間に宣伝することのほとんど無駄なことを悟って、哲学や科学や文学の仮面の下に自由思想を論じた最初の『近代思想』は、要するに知識的手淫に過ぎないものと断じた。そして二年間もいつくしんで来てようやく世間から認められだしたそれを止して、僕等の本来に帰るんだと言って、別に労働者相手の『平民新聞』を創めた。それが前にも言ったように、半年間発売禁止を続けてついに倒れ、さらに半年間の準備によって再び起された『近代思想』も同じ運命の下に倒されてしまった。僕等はもうちょっと手の出しようがなかった。それでも、もし僕等同志の結束でも堅いのであったら、また何とか方法もあったのだったろう。が、ごく少数しかいない同志の間にもこれがうまく行かなかった。同志の間にはまだ運動に対する本当の熱がなかったのだ。
「僕等はまるで暖簾と腕押しをしているのだな。」
 当時ほとんど一人のようになっていた荒畑寒村と僕とが、よく慨き合った言葉だった。
 かくして、もう何もかも失ったような僕が、その時に恋を見出したのだ。恋と同時に、その熱情に燃えた同志を見出したのだ。そして僕はこの新しい熱情を得ようとして、ほとんどいっさいを棄ててこの恋の中に突入して行った。
 その恋の対象がこの神近と伊藤とだったのだ。が、その恋ももう堕落した。僕等三人の間には、友人または同志としての関係よりも、異性または同性としての関係の方が勝って来た。そしてその関係がへたな習俗的なものになりかかっていた。
 例のおげんさんによって夕飯が運ばれた。そしてこのおげんさんの寂しい顔が、みんなの気まずい引きたたない顔の中にまじった。好きなそして甘そうな料理ばかり註文したのだが、僕も伊藤もあまり進まなかった。神近もちょっと箸をつけただけで止した。
 伊藤は箸を置くとすぐ、室の隅っこへ行って何かしていたがいきなり立ち上って来て、
「私帰りますわ。」
 と、二人の前に挨拶をした。
「うん、そうか。」
 と、僕はそれを止めることができなかった。神近もただ一言、
「そう。」
 と言ったきりだった。
 そして伊藤はたった一人で、おげんさんに送られて出て行った。
 二人きりになると、神近はまた、前よりももっと、愚痴らしくそしてまた言いわけらしく、来た時に言った言葉を繰返した。僕も不機嫌にやはり前に言った言葉をただ繰返した。そして僕は引返して来たおげんさんにすぐ寝床を敷くようにと命じた。
 朝秋谷で汗をかいたり風にふかれたりしたせいか、そしてその上に湯にはいったせいか、少し風邪気味で熱を感じたのだ。肺をわずらっていた僕には、感冒はほとんど年じゅうのつきものであり、そしてまた大禁物だった。が、ちょっとでも風邪をひくと、僕はすぐ寝床につくのを習慣としていた。
 が、その時には、それよりむしろ、神近と相対して坐っていて、何か話ししなければならないのが、何よりも苦痛だった。彼女がこの室にはいって来て、伊藤の湯上り姿に鋭い一瞥を加えて以来、僕は彼女の顔を見るのもいやになっていたのだ。
 彼女は疲れたからと言ってすぐ寝床にはいった。僕は少し眠ったようだった。
 夜十時頃になって、もうとうに東京へ帰ったろうと思っていた伊藤から、電話がかかって来た。ホテルの室の鍵を忘れたから、逗子の停車場までそれを持って来てくれというのだ。僕は着物の上にどてらを着て、十幾町かある停車場まで行った。彼女は一人ぽつねんと待合室に立っていた。
「いったん汽車に乗ったんですけれど、鍵のことを思いだして、鎌倉から引返して来ましたの。だけどもう今日は上りはないわ。」
 彼女はそう言って、一人でどこかの宿屋に泊って明日帰るからと言いだした。
 僕は彼女を強いて、もう一度日蔭に帰らした。いっそ、三人でめいめいの気まずい思いを打明け合って、それでどうにでもなるようになれと思ったのだ。が、こうして彼女が帰ると、室の空気は前よりももっといけなかった。そして三人とも、またほとんど口をきかずに、床をならべて寝た。
 神近も伊藤もほとんど眠らなかったようだ。が、僕は風邪をひいた上に夜ふけてそとでをしたので、熱が大ぶ高くなって、うつらうつらと眠った。そして時々目をさましては彼女等の方を見た。神近はすぐ僕のそばに、伊藤はその向うにいた。伊藤は顔まで蒲団をかぶって、向うを向いてじっとして寝ていた。僕がふと目をあけた時、僕は神近が恐ろしい顔をして、それを睨んでいるのをちらと見た。
「もしや……」
 とある疑念が僕の心の中に湧いた。僕は眠らずにそっと彼女等を窺っていなければならないときめた。が、いつの間にか熱は僕を深い眠りの中に誘ってしまった。

   四

 目をさました時にはもうかなり日が高かった。神近も伊藤も無事でまだ寝ていた。僕はほ
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