らユニオンの四にぶつかるのは実に無茶なことだった。しかし僕は先生のところでその講義を聞いて来ては、さらにうちへ帰って字引と独案内とを首っ引きにして、それこそ本当に一生懸命になって勉強した。そして一、二月するうちにはそのユニオンの四も大した苦にはならなくなった。
すると七月か八月の幾日かに、突然僕は「母危篤すぐ帰れ」という父の電報を受取った。
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自叙伝(六)
一
父の家は尾上町のすぐ近所の西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]という町の、練兵場の入口の家に引越していた。もと谷岡という少佐が住んでいて、僕はその息子と中学校で同級だったので、前からよく知っている家だった。谷岡は幼年学校や士官学校の試験にいつも失敗して、とうとう軍人になりそこねて、後慶応にはいって、今はどこかの新聞の経済記者になっていると聞いた。そしてその家の裏には、先年社会主義思想を抱いているというので退職された、松下芳男中尉が住んでいた。勿論まだ当時はほんの子供で僕の弟の友達だった。
玄関にはいると、僕は知っている人達や知らない人達の大勢がみんな泣きながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてうろうろしているのを見た。僕は母はもう死んだのだと思った。しかもまだ今死んだばかりのところだと思った。そしてそのうろうろしている人達の一人をつかまえて、「お母さんはどこにいます」と聞いた。が、その女の人はちょっと大きく目を見はって見て、何にも答えないで、わあと声を出して泣いて、逃げるようにして行ってしまった。僕はまたもう一人の女の人をつかまえた。が、やはりまた、前と同じ目に遭った。
仕方がないので、どこか奥の方の室だろうと思いながら、まず先きの人達の逃げこんだ玄関のすぐ次の室にはいった。その室とその奥の座敷との間の襖は取りはずされて、その二つの室一ぱいに大勢の人達が坐っていた。僕がはいって行くと、みんなは泣きはらした目をやはり先きの人達と同じように大きく見はって僕の顔を見つめていたが、僕がまた「お母さんはどこにいます」と聞くと、その中の女の人達はまたわあと声をあげて泣きだした。そして誰一人僕の問いに答えてくれる人はなかった。僕は変な気持になりながら、仕方なしに、また襖をあけて玄関の奥の一室にはいった。そこは母の居室になっていたものと見えて、箪笥だの鏡台だのがならんでいるだけで、誰もいなかった。僕はそこに突ったったまま、一体どうしたことなんだろうと思いながら、ぼんやりしていた。
そこへ、それが誰だったかはもう忘れてしまったが、とにかく母と親しくしていたそして僕も好きだったある軍人の細君がはいって来た。
「あなたはまあどうしたんです。お先きにいらっしたんですか。」
彼女もやはり目を泣きはらしながら、しかししっかりとした口調で叱るように言った。僕はその「お先きに」という言葉が何のことだか分らなかった。しかし、とにかく、
「いや、僕は今東京から来たんです。」
とだけ答えた。
「それじゃあなたは新潟へはいらっしゃらなかったんですか。」
「え、行きません、母は新潟にいるんですか。」
「ああ、それじゃあなたは何にも知らないんですね。まあ……」
と言いながら彼女はほろほろと涙を流した。
「母はもう死んだんですか。」
「ええ、きのう新潟病院でおなくなりになりました。そして、きょう、もうすぐみなさんでこちらへお帰りの筈です。」
僕はそう聞くと、なるほどうちのものは誰もいないなと気がついた。そして同時にまた、初めて自分で電報というものを受取った僕が、その差出人のところはちっとも見ずにただ中の「母危篤すぐ帰れ」というのだけを見て、驚いて向いの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけたことを思いついた。
「お着きです。」
という声がして、みんなが玄関へ出て行くのが聞えた。
「ああ、お着きだそうです」
彼女はぼんやりと考えている僕を促すように言って、玄関へ出て行った。僕もそのあとに随いて行った。
棺の前後に父や弟妹等やその他四、五人の人達が随いて、今車から降りたばかりのところだった。
あとで聞くと、さっき僕が車から降りた時にも、やはり「お着き」だと思って大勢出て来たのだが、僕がたった一人でしかもうろうろしながら「お母さんはどこにいます」なぞと聞くもんだから、これやきっと気でも変になったんじゃあるまいかと、みんながそう思ったんだそうだ。
母は卵巣膿腫、すなわち俗にいう脹満で死んだのだ。
その少し前に、九人目の子供を流産してからだを悪くしたので、しばらくどこかの温泉へ行っていたのだが、帰ってすぐ手術をすると言って新潟へ出かけたのだそうだ。しかも、「なあに、二週間もすればぴんぴんしたからだになって帰って来ますよ」と言って、大元気で出かけたのだそうだ。
「そんなふうでしたし、それにお母さまは栄は今試験前で勉強で忙しいんだから心配さしちゃいけないとおっしゃって、どうしてもあなたのところへお知らせするお許しが出なかったんですよ。」
母の死骸が着いた晩、三の町のお嬶といって、昔僕の家が新発田へ行ったその日から母の髪結いさんとして出はいりして、そしてその後髪結いをよしてからもずっと母の一番親しいお相手として出はいりしていた女が、お通夜をしながら僕に話しだした。僕が去年の夏、この自叙伝を書く準備に二十年目でそっと新発田へ行った時にも、僕が最初に訪ねたのはもういい婆さんになっていたこのお嬶だった。
「すると、三、四日もしないうちに、危篤という電報なんでしょう。で、私、お子さん方をみなさんお連れ申して参ったんですけれど、それやもう大変なお苦しみでしてね。注射でやっと幾時間幾時間と命をお止め申していたんです。時々、栄はまだかまだかとおっしゃりましてね、そしてあの気丈な方がもう苦しくて堪らないから早く死なしてくれ死なしてくれとおっしゃるんです。それでも、私がもうすぐお兄さまがいらっしゃいますからと言うと、うんうんとお頷き遊ばして黙っておしまいなさるんですもの。それや、どんなにかあなたをお待ち遊ばしたんですか。幾度も早く死なして死なしてとおっしゃるんですけれど、そのたびに私があなたのことを申しあげると、頷いては黙っておしまいなさるんですもの。」
お嬶は一晩じゅう、ほとんどこの話ばかり繰返して言って聞かしては、自分も泣きまた僕をも泣かした。
「それに、お母さまは、お嬶丈夫になってすぐ帰って来るからねと大きな声でおっしゃってお出かけなすったんだけれど、実はご自分でも覚悟をしていらっしたんですよ。私、お子さん方をお連れして行く時に、お召物を出しに箪笥をあけて見ますと、お母さまのお召物に何だか妙な札がついているんです。よく見ますと、それがみんな春とか菊とか松枝とかとお嬢さん方のお名前が書いてあるんでしょう。私、腹が立ちましてね。何もそんな覚悟までして、わざわざ新潟くんだりへ手術なぞしにいらっしゃらなくてもよさそうなものだと思いましてね。私、そのことはお母さまに存分お怨みを申上げましたわ。」
お嬶はまたこんな話もした。そして、母の死は実は医者の過失なので、手術後腹が痛み出してまた切開して見たら中から糸が出て来て、大変な膿を持っていたなぞとも話した。これは、そこに立ち会った人達がみんな非常に憤慨して話して、病院へなんとか掛合わなければならんなぞと言っていたが、父は悲痛な顔をしながら「いや、済んだことはもう仕方がない」と一人あきらめていた。
そんなお通夜が二晩か三晩続いて、大阪にいたお祖母さん(母の母)と僕のすぐ妹の春とが到着するとすぐ、葬式が出た。
ちょうど新発田の町のほとんど端から端までの一番賑やかな大通りを通って、僕が位牌を持たせられて、宝光寺という旧藩主の菩提寺まで練って行った。新発田にもう十幾年もいて、それに母はそとへ出ると新発田言葉で大きな声で会う人ごとに挨拶して歩くというほどだったので、見送りの人もずいぶん多かった。そしてほとんど通りの町じゅうの人がそとへ出て見送ってくれた。
「あんなご立派なお葬式はまだ見たことがありません。」
と言って、三の町のお嬶なぞは今でもまだ、その人並すぐれた小さなからだを揺すりながら、おかめのような顔を皺くちゃにして自慢にしている。
葬式が済んでから、母の棺を六人ばかりの人足にかつがして、僕と弟の伸とが引っついて、五十公野山という僕等がよく遊びに行った小さな山の奥の方へ火葬に行った。人足どもはその場所まで行くと、まず藁を敷いて、その上へあたりの松の枝を折って来ては積み重ねて、そしてその上へ棺を載せてまた松の枝を積み重ねた。そして自分等はそこから二、三間離れたところに蓆を敷いて、車座になって、持って来た大きな徳利だの重箱だのを幾つか並べたてた。こうして朝まで飲みあかしながら、死骸がすっかり骨になってしまうまで待つんだという。
僕はその人足どもの言うままに、一束の藁に火をつけて、その火を棺の一番下に敷いてある藁の屑に移した。藁はすぐに燃えあがった。その火はさらに、その上の松の枝や葉に燃え移った。そして僕はその焔々として燃えあがる炎の中に、ふだんのようにやはり肉づきのいい、ただ夏のさ中に幾日もそのまま置いたせいかもう大ぶ紫色がかりながらも、眠ったようにして棺の中に横たわっている母の顔を見た。僕はその棺箱が焼けて、母の顔か手か足かが現れて出たら、堪らないと思った。それでも僕はじっとしてその炎を見つめていた。
人足どもの一人は急いで僕等兄弟をわきへ連れて行って、すぐ帰るようにと勧めた。もう日も大ぶ暮れていたのだ。そして僕はその場所へ行ったらすぐ帰るようにとあらかじめ言いつけられて来たのだ。僕等はその人足に送られて山の麓まで出て、そこから車に乗って帰った。
二
母の死体がうちへ着いた時に、僕はその棺のそばに、礼ちゃんが立っているのを見た。礼ちゃんも二、三日前から新潟の母のところへ行っていたのだ。たしかその晩だったと思うが、夜遅くなってから、お通夜をするというのを無理やりにみんなに帰れ帰れと勧められてうちへ帰った。そして、高級副官の父のもとにやはり旅団副官をしていた何とかいう中尉の細君が、これはまだ若いそうして連隊じゅうで一番綺麗な細君で、僕は前からずいぶん親しくしていたのだったが、そっと僕の肩を突っついて、しかし高い声で、僕に礼ちゃんを送って行くようにと勧めた。ほかの人達も、それと一緒になって、同じように僕に勧めた。僕は急に胸をどきどきさせながら、ちょっとためらった。礼ちゃんはもじもじしながら、にこにこして、僕が座を立つのを待っているようだった。綺麗な細君もやはりにこにこして、僕の顔を見ているようだった。僕はこの二人の若い細君の微笑みに妙に心をそそられた。
僕はすぐ提灯を持って、礼ちゃんと一緒にうちを出た。そとは真暗だった。礼ちゃんと僕とはほとんどからだを接せんばかりに引っついて行った。二人がこんなにして歩くのはこれが初めてだったのだ。僕はもう母が死んだことも何もかも忘れてしまった。そして提灯のぼんやりした明りを二人の真ん中の前にさし出して、ますます引っついて歩いて行った。二人は何か声高に話しながら笑い興じていたようだった。
「あら、斎藤さんじゃありませんか。」
二人は向うから軍服を着て勢いよく歩いて来る男にぶつかりそうになって、礼ちゃんはその男の顔を見あげながら叫ぶようにして言った。それは礼ちゃんのうちと同僚の斎藤中尉だったのだ。この中尉は、僕がまだ幼年学校にはいる前、彼がまだ見習士官だった頃から、僕もよく知っていた。が、中尉の方ではちょっと僕等が分らないらしかった。
「君は何だ。」
中尉は礼ちゃんの方へ食ってかかるように怒鳴った。
「いや、僕ですよ。」
僕は礼ちゃんをかばうようにして一足前へ出て言った。中尉はじっと僕の顔を見つめていたが、
「やあ、君でしたか。これはどうも失礼。僕はまた……いや、これからお宅へ行くところなんです。どうも失礼。」
と、多少言葉は和らげながらも、まだぷりぷりしたような様
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