、下の二、三段のほかはみなぼんやりして、上があいているのか下があいているのかよく分らなかった。
若い軍医は首をかしげて奥の方の室へはいって行った。そして、僕が子供の時から何かの病気の際にはいつも世話になっていた、平賀という一等軍医を呼んで来た。
「これはことしはどんなことがあっても入れなけやならないんだ。」
平賀軍医はそう言いながら、僕の目の検査をし直した。そして暗室へ連れて行ったり、いろんな眼鏡をかけさして見たりして、要するに合格にしてしまった。
学科の方は、別に何の勉強もしなかったのだが、高等小学校卒業程度の試験なんだから、やすやすとできた。
そして官報で及落が発表される少し前に、山田の伯父から、「サカエゴウカクシユクス」という電報を受取った。
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自叙伝(四)
一
幼年学校は、東京に中央幼年学校というのがあって、そして当時の六個師団の各師団司令部所在地に地方幼年学校というのがあった。中央は本科で地方は予科だ。ある師団、たとえば第一師団の管轄に本籍を持っているものは、その師団司令部所在地の、すなわち東京の地方にはいった。そしてそこで三年間いわゆる軍人精神を吹っこまれて、各地方のものがみんな東京の中央に集まるのだった。
僕は僕の本籍地の名古屋の幼年学校にはいった。
父は、後に僕が社会主義者になったのを、僕のフランス語のせいにしていた。フランスは革命の国だというごくぼんやりした理由からだ。僕もそれは、もっと細かなそしてもっと込みいった理由から、部分的に承認する。が、僕のそのフランス語というのは、この幼年学校で、しかも命令的にはじまったのだった。
東京の地方にはフランス語とドイツ語とロシア語とがあった。が、その他の地方には、フランス語とドイツ語としかなかった。そして入学志願者は、その願書の中に、その中のどれか一つを希望語学として書き入れて置くのだった。
僕は、フランスはもう旧い、これからは何でもドイツだというので、ドイツ語を選んだ。そして父を覚束ない先生にして、一カ月ばかりかかって、たしかヘステルの第一読本をあげていた。
名古屋へ行く途中、東京で、一、二年前から上京していた大久保を訪ねた。彼も去年は落第して今年は東京の地方に及第したのだった。彼もやはりドイツ語を希望していた。そこへ、熊本の地方の先輩である石川が、休暇で東京に遊びに来ていて、一緒に落ち合った。彼はやはりドイツ語で、しかもそれが非常にお得意らしかった。彼はフランス語をさんざんにけなした。大久保と僕とは、何が書いてあるんだかちっとも分らない亀の子文字の彼の本をいじくり廻しながら、大いに彼をうらやんだ。
が、学校にはいったその日の、第一番目の出来事は五十名の新入生が撃剣場でせいの順に並ばされたことで、そしてその次がそれに続いてすぐみんなの語学を決定されたことであった。希望者はフランス語よりもドイツ語の方が遙かに多かった。そして学校の方針はそれを公平に二分することであった。すなわち五十名の新入生を二十五名ずつそれぞれドイツ語とフランス語とに分けることであった。
「もっとも、今までドイツ語をやっていたものは、希望通りドイツ語をやらせる。しかしそれは、単にアベチェを知っているとか、エス・イスト何とかを知っているとかいうんでは駄目だ。試験をする。」
せいの高い、胸とお尻のうんと張り出た、ドイツ士官のような大尉が、左の手をそのお尻の上に乗せ、右の手でねじ上った髯をさらにねじ上げながら、そのエス・イスト何とかというのを非常に流暢にやった。このエス・イスト組は僕の外にも五、六人あったようだった。が、みんな「試験をする」というのにおどかされて黙ってしまった。そしてその大尉は、恐らくは気まぐれに、すぐその場でドイツ語とフランス語の二組をつくってしまった。
僕の名はそのフランス語の方にあった。僕はがっかりした。しかし、命令でそうきめられてしまった以上は、もうどうともすることができなかった。それに、元来語学の好きな僕はフランス語もすぐに好きになった。そして、その他の科目はすべて中学校でやったことの復習のようなものなので、僕はこのフランス語に全力を注いだ。
本はアメリカでできたフレンチ・ブックとかいうので、英語でフウト・ノートがついていた。僕はまだ碌に発音もできないうちから、そのノートと大きな仏和辞書と首っ引きで、一人で進んで行った。そして二学期か三学期かの初めに、原書の辞書を渡されてからは、先生の言う通りに分っても分らんでもその原書の辞書ばかりを引いていた。先生はまた、この辞書と同時に、向うの子供雑誌の古いのを折々分けてくれた。「分っても分らんでもいい、とにかく読んで行け」というのが先生のモットーだった。僕は忠実に貰った雑誌の初めから終りま
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