して論語によって倫理の講義をしていた。
たしか二年の初め頃だった。ある日先生が、倫理の時間に、みんなの理想し崇拝する人の名を尋ねた。秀吉も出た。家康も出た。正成も出た。清麿も出た。そしてだんだん順番が廻って僕の番になった。
僕にはまだ、実は、理想し崇拝するというほどの人はなかった。それにいいかげんに誰かの名を言うにしても人の言った名をまた言うのはいやだった。誰にしようか、と考えて見てもちょっと新しい名が浮んで来なかった。そこへ僕の番が来たのだ。僕はすっかり困ってしまった。
が、とにかく立ちあがった。するとふいに、最近に買って読んだ、誰だかの西郷南洲論を思いだした。僕はいい見つけものをしたつもりで、「西郷南洲です」と答えた。
先生は一と廻りしてしまったあとで、みんなの答えたそれぞれの人についての批評をした。
「なるほど西郷隆盛は近代の偉人だ。あるいは、日本の近代では一番の偉人であるかも知れない。が、彼は謀叛人だ。陛下に弓をひいた謀叛人だ。そしてこの謀叛人であるということに、よしそれがどんな事情からであったにしろ、またほかにどんな功労があったにしろ、とうてい許されることはできない。いわんやその謀叛人を理想し崇拝するなぞとは、もってのほかだ。」
先生の僕の答に対する批評は大たいこんな意味だった。そして最後に先生は、みんなの理想し崇拝しなければならぬ人物として例の孔子様をあげて大いにその徳を頌した。
僕はこの批評が非常に不平だった。僕が読んだ本では彼の謀叛は陛下に弓をひいたのではない、いわゆるその何とかの下にかくれている姦臣どもを逐い払うための謀叛だとあった。僕もそう信じていた。しかし先生にこう言われてからは、そんなことはもうどうでもよくなった。許されようが許されまいがそんなことはもう問題ではなくなった。とにかく彼は偉かったんだの一点ばりになった。そして家へ帰ってまた西郷南洲伝を読み返して彼をすっかり好きになってしまった。
この西郷南洲伝はさらに僕を吉田松陰伝や平野国臣伝に導いた。そしてそのどんなところが気に入ったのか忘れたが、とにかく平野国臣は何だか非常に好きだったように覚えている。
三好先生は深田先生というのを教頭に連れて来た。小柄の綺麗な顔に頬髯を一ぱいにはやした先生だった。
先生は一年の時の倫理と英語を受持った。倫理には、長い間続けて郡司大尉の千島行の話を聞かされた。先生の英語は、声が綺麗で、今までの小学校や私塾の英語の先生のとはまるで違った、いい発音だった。
博物や理化の先生もやはり学士であったが、意地わるなので、僕等はその学科に興味を持つことができなかった。
お爺さんだった習字の先生は、いつも僕に、よく手本を見て書けばうまく書けるのだから、ぞんざいに書いてはいけないと言って注意してくれた。が、僕には、どうしてもお手本の一点一劃をその通りに見て書くということができなかった。そしてこのぞんざいのお蔭で、今でもまだろくに字の恰好をとることができない。
図画は最初鉛筆画で、あとで毛筆画になったが、一年から二年までの間に数えるくらいしか描いたことがなかった。まるで描けないし、それに大嫌いだったのだ。
学校の勉強はまるでしなかったが、成績は英語が一ついつでもいいくらいなもので、あとはみな乙ぞろいだった。そして三分の一ほどの席順にいた。
僕が一年から二年へ越える時に、虎公が高等小学を終えた。
虎公の家は、虎公とお婆さんと二人きりで、どうして食っていたのか知れないが、相変らず貧乏だった。虎公はしきりに中学校へはいりたがっていたが、どうしても駄目らしかった。僕は虎公が可哀そうで堪らなかった。そしてとうとう一策を案出してそれを虎公に謀った。それは僕が使った本はみな虎公にやるから、虎公はその伯父さんから月謝だけ出してもらって、学校へ行くがいいというのだった。
虎公は非常に喜んで、すぐそれをお婆さんに話して、伯父さんに相談に行った。伯父さんというのは典獄を勤めていた。
が、虎公の運命はもう、そのよほど以前にきまっていたのだった。彼は伯父さんの家から泣いて帰って来た。中学校へはいりたいなぞという非望を叱られて、近々に函館のある商店へ小僧に行くようにと命ぜられて来たのだ。
僕は虎公のこの運命をどうともすることができなかった。二人は相抱えて泣いた。そして僕は大将になるから、君は大商人になり給えと言って、永久の友情を誓った。
虎公と僕とは記念の写真を撮った。そして僕は母にねだって、暖かそうなフランネルのシャツとズボン下とを作ってもらって、それを餞別に送った。
僕は大将になり損ねたが、虎公ははたしてどうしているか。彼の本名は西村虎次郎と言った。
虎公が行ってしまってからすぐ僕は幼年学校の入学試験を受けた。そして
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