そして、これは特筆大書しなければならんことだが、僕はこの先生にだけはただの一度も叱られたことがなかった。
それだのに、どうだろう、僕はこうして二年間もずいぶん可愛がってもらったこの先生の名さえも忘れてしまっているのだ。
先生から中学校行きを勧められたことは、堅く口どめされていたのにもかかわらず、すぐにみんなの間に拡がった。そしてそれと同時に、中学校ができるということも確実になり、高等二年を終えたものはすぐにはいれるということも知れ渡った。僕等と同じ級からの入学希望者も大ぶできた。そしてそれらのものから僕等三人は一種の憎しみの的となった。
四月のはじめに、僕は中学校の仮校舎になっていた何とか寺へ入学願書を持って行った。受付の事務員が、しばらくの間それを読んでいたが、やがて「あんたは年が足りないから駄目です」と言ってそれを突っ返した。僕は泣きそうになって家へ帰った。
学校の入学規則には満十二年以上とあった。そして僕の願書には満十一年十一月とあった。一カ月足りないのだ。僕はくやしくて堪らなかった。父も母も「そんなに急ぐには及ばんから来年のことにするさ」と言って慰めてくれるんだが、僕はどうしても思いきることができなかった。みんなが「ざまあ見ろ」と言ってあざ笑っているのが、すぐ目の前に見えたのだ。
僕は満十一年十一カ月というのを十二月となおして、もう一度中学校の事務所へ行って見た。
「よく勘定して見ると十一カ月じゃないんです。十二カ月です。十二カ月なら都合十二年になる訳なんだから、それでいいでしょう。」
僕は一生懸命になって、自分の生れた月の五月から始めて六七八九……一二三四月と十二まで指を折って見せてその確かに十二カ月になることを力説した。
事務員は笑っていたが、「とにかく相談して見ましょう」と言って願書を受けつけてくれた。僕はその翌日また行って見た。そして要するに、一学期間はみんな仮入学を許して、九月からほんとうの生徒になるんだからというので、僕は入学を許されることとなった。
中学校には僕等三人のほかに同じ級から二十名近くはいった。が、その半分は本入学の時に篩い落され、あとの半分も大部分は二年へ行く時に落されてしまった。そしてその残りの一人か二人も三年に登る時に落されてしまった。
二
この十三の春は、からだの上にも心の上にも大きな変化を僕にもたらした。
ある日、偶然僕は僕のからだのある一部分に、うぶ毛ではない黒い毛の密生して来ていることを発見した。僕はそれが非常に恥かしかった。これは僕と同じ年の友達には勿論、一つ二つ年上の友達にもまだ見ないことだったのだ。僕は幾度も、あるいは便所で、あるいは自分の室で、そっとそれを(十二字削除)した。が、いつの間にかまたそれが前よりも、もっと(五字削除)して来るのだった。
それとほとんど同時頃に、僕はほんとうの自慰を覚えた。前にお花さんとやったほんの遊びが、こんどは(十三字削除)なったのだ。
それ以来僕は机の前に長い間坐って本を読むことができなくなった。一時間も坐っていると、(五字削除)して来て、どうしてもじっとしていることができなかった。そして一日に二度も三度も自慰に走った。
勉強家だった僕はすっかり怠けものになってしまった。
僕は父や母が少しでも猥りがましいことをしたり、そんな話をしているのを見たことも聞いたこともなかった。
従卒や馬丁が女中とふざけているのはよく見た。馬丁はほかから通って来るのでそれほどでもなかったが、従卒は書生か下男同様に泊りこんでいるので、始終女中とふざけ合っていた。従卒の室へはいって行って、従卒と女中とが今相撲を取っているのだというところを見たこともあった。また、女中が真赤な顔をして、息をきらしながら着物の前を合せ合せ従卒の室から飛び出て来るのにぶつかったこともあった。やがてこの女中はその従卒の子を孕んで宿にさがった。
僕等がいた片田町の裏の小人町(おこひとまち)というのは淫売町だった。片田町の一方のはじの、西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]に近い部分も、やはりそうだった。日曜の夕方そこを通ると、きっと酒に酔っぱらった兵隊が、真白な女の頸にかじりついているのが見られた。
一度、馬丁に連れられて、西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]の何とか温泉といったお湯屋へ行った。真白な頸の女が大勢はいっていた。男も二、三人まじっていた。馬丁は僕に待っていろと言って、自分一人その中へはいって行った。男と女とが湯船の中に入りまじって、キャッキャッと言って騒いでいた。僕はいやになって、馬丁がとめるのも聞かずに、一人で家へ帰った。
が、僕自身は女の友達とはだんだんに遠ざかって行った。
学校が別になってめったに会う機会のなくなった光子さんは、折々その小
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