か、僕がたぶんほとんど最初のお客となって、何かの本を買いに行った。店も何にもなくて、ただ座敷の隅に数十冊の本を並べてあっただけだった。しかし、それまで本屋というもののまるでなかった、ただある一軒の雑貨屋が教科書と文房具との店を兼ねていただけの新発田では、それでも十分豊富な本屋だったのだ。僕はひまがあるとその本屋へ遊びに行って、寝ころんでいろんな本を読んで、何か気に入ったものがあると買って来た。小使銭というものを一文も貰わなかった僕は、文房具でも本でも、要るだけのものは母に黙っててもどこかの店から月末払いで持って来ることができた。その払いが少し嵩むと、母はこれからはあらかじめそう言うようにと注意はしたが、決して叱ることはなかった。その後すぐこの本屋は上町に店を持って、やはり万松堂と言っていた。そして僕は、それから三、四年経って新発田を去るまで、そこの店の一番いいお客の一人だった。
 この夏新発田へ行った時、僕は第一番にもっともこれが宿のすぐ近くであったからでもあるが、この店を訪ねた。主人はやはり昔の主人だった。
「僕誰だか分るかい?」
 僕は黙って僕の顔を見つめている主人に尋ねた。
「ええ、確かに見覚えはあるんですけれど、どなたでしたかな。」
「もうちょうど二十になるんだからね。分らんのも無理はあるまいが……」
「いや、そのお声で思い出しました。これやほんとうにしばらくめですよ。」
 主人はそれで小僧にお茶を入れさした。そして僕は昔の友人の行方をいろいろとこの主人から聞いた。新発田の中学校を出たものなら、主人はほとんどみなよく知っていた。

 友人等との会の話が本屋のことにそれてしまった。もう一度話をもとに戻そう。
 この会での一番大きな問題は、遼東半島の還附だった。僕は『少年世界』の投書欄にあった臥薪嘗胆論というのをそのまま演説した。みんなはほんとうに涙を流して臥薪嘗胆を誓った。
 僕はみんなに遼東半島還附の勅諭を暗誦するようにと提議した。そして僕は毎朝起きるとそれを声高く朗読することにきめていた。
 虎公は高等小学校を終えるとすぐ北海道へ小僧にやられた。そしてその数年後にまったく消息が絶えてしまった。谷は僕よりも一年遅れて幼年学校にはいった。今はたぶん少佐くらいになっているだろう。杉浦は、その家が何をしていたのか当時は知らなかったが、そしてその家の相応な構えなのにもかかわらず馬鹿にけちだったところから後では高利貸かとも想像していたが、こんど行って聞いて見ると新発田第一の大地主だった。今は当主でぶらぶら遊んでいる。
「ほかではどうか知らないが、少なくともこの越後では農民運動は決して起りませんよ。地主と小作人とがまったく主従関係で、というよりもむしろ親子の関係で、地主は十分小作人の面倒を見ていますからね。」
 杉浦君は先日会った時、室のあちこちにある神棚のあかりを手際よく静かに団扇で消して、その農民との関係を詳しく話してくれた。

   四

 そんなふうで、その頃はずいぶんよく勉めもしたようだが、しかしまたずいぶんよく遊びもしたようだ。
 遊び場は、前の片田町にいた時とは違って、もうすぐ前の練兵場ではなくなっていた。前にも言った大宝寺の射的場のバッタ狩り。その後ろの丘の茸狩り。昔殿様の遊び場であった五十公野山の沢蟹狩り。また、昔々、何とかという大名が城を囲まれて、水路を断たれて、うんと貯えてあった米を馬の背中にざあざあ流して、敵に虚勢をはって見せたという城あとの加治山。そこではまだ、頂上の狭い平地の赤土をちょっと掘ると、黒く焦げた焼米が出て来た。綺麗な冷たい水の加治川。それらはみな、子供の足にはちょうどいい遠足の一里前後のところにあった。

 あの夏の日、僕は虎公と一緒に加治山へ遊びに行った。山百合が真盛りだった。
 虎公は百合の根を掘りはじめた。虎公はその家の裏に広い畑があって、よくその年とったお婆さんの手伝いをしていろんなものを作っていたところから、そんなことについての知識を持っていたのだ。僕も一緒になって掘りはじめた。収穫は大ぶ多かった。が、僕はそれをすっかり虎公にやってしまった。
「虎公のうちは貧乏なんだから……」
 僕はそうきめていたのだ。虎公はまた釣が好きで、よく朝の三時頃から連れ出されたが、そんな時にもいつも僕は全収穫を虎公にやっていたのだ。
 が、帰りがけに僕は、母が何かちょっとした病気で寝ていることを思い出した。そして百合の花をおみやげに持って帰ることに気がついた。僕はあちこち駈け廻って、なるべく大きそうなそして幾つもの花のついている、十幾本かを蒐めた。
 二人とも大喜びで帰った。そして僕はすぐに離れの母が寝ている室へ行った。
「根の方を持ってくればいいのにね。ほんとにお前は馬鹿だよ。そしていつも虎公にそんな
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