妙なところだなと思っていると、何だか俺のからだの節々が痛み出して来た。気をつけて見ると、俺のからだにもやっぱり、十重二十重にも鎖が巻きつけてある。そして俺もやっぱりせっせと鎖の環をつないでいる。俺もやっぱり工場の職工の一人なのであった。
 俺は俺自身を呪った、悲しんだ、そして憤った。俺はへーゲルの言葉を思い出した。「現実するもののいっさいは道理あるものである。道理あるもののいっさいは現実するものである。」
 ウィルヘルム第一世およびその忠良なる臣下は、この言葉をもって、当時の専制政府、警察国家、封印状裁判、言論圧迫等のありのままのいっさいの政治的事実に、哲学的祝聖を与えたものであると解釈したそうだ。
 政治的事実ばかりではない。すべてがそうなのだ。あの愚鈍なるプロシャ人民に取っては、あのいっさいの現実が、たしかに必然の、そして道理あるものであった。
 俺自ら俺の鎖を鋳、かつ俺自ら俺を縛っている間、とうてい、この現実は、必然である、道理である、因果である。
 俺はもう俺の鎖を鋳ることはやめねばならぬ。俺自ら俺を縛ることをやめねばならぬ。俺を縛っている鎖を解き破らなければならぬ。そして俺は、新しい自己を築き上げて、新しい現実、新しい道理、新しい因果を創造しなければならぬ。
 俺の脳髄を巻きつけていた鎖は、思ったよりも容易に、大がい解けた。しかし俺の手足の鎖は、頑固に肉の中にまで、時としては骨の中にまで喰い込んでいて、ちょっと触ったばかりでも痛くって仕方がない。それでも我慢しいしい少しは解いた。そして後には、その痛いのが、多少小気味のいい感じさえ添えて来た。見張りの奴の棍棒も、三つや四つぐらいなら、平気で受けるほどになった。傍の奴等の嘲笑や罵詈は、こっちから喜んで買ってやりたいほどになった。
 けれども俺ひとり俺の鎖を解こうとしても、どうしても解けない鎖がたくさんある。俺の鎖とみんなの鎖とは、巧みにもつれ合いつなぎ合っている。どうにも仕方がない。それに少しでも怠けていると、せっかく苦心して解いた鎖が、自然とまた俺のからだに巻きついている。知らぬ間に俺の手は、また俺の環をつなぎ合わしている。
 工場の主人の奴は、俺達の胃の腑の鍵を握っていて、その鍵のまわし工合で、俺達の手足を動かしているのだ。今まで俺は、俺の脳髄が俺の手足を動かすものだとばかり思っていたが、それは大間
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング