立った馬の鬣《たてがみ》は、しかし、梶のこうして心中|詫《わ》びる気持ちを、いつともなく吸いとり拭《ふ》き浄めて疲れも彼は忘れて来た。も早や疑うことの出来ぬこの目前の事実だった。彼は暫く遠方の空を仰ぎ見る粛然とした思いのまま、この下の牧場で産れ、ここに自分と対っているこのヨハンに通訳の労をとられた白雪だと思うと、一層その姿が親わしく尊とくも思われて来るのだった。またそれがいつか慶《よろこ》ばしい気持ちにも転じて来て、暫くは眼下に静まった牧場を見降ろしながら、さらに思いもうけぬ意味ふかまったこの眺めだと彼は思った。

 その夜、梶とヨハンは前夜のように急がしく所所を見て廻った。しかし、自分の前後に絶えずいるヨハンの姿は、ともにまた絶えず白雪の姿をも泛《うか》べて離れなかった。梶はもう一度最後の別れに、アンナとイレーネに逢いたいと思ったが、それさえヨハンにはついに云い出しがたく黙っていた。そうして、二人の自動車がある大通の前まで来かかったとき、ヨハンは右側に連った石造の建物を指差して、
「これはジャパンというカフェーです。ここでは一番のカフェーです」
 と梶に告げた。しかし、それをよく見る間もなく車は辷《すべ》っていったとき「これは?」と梶が右側のを訊ねると「これはまだジャパンの続きです」とヨハンは答えた。梶は車の迅《はや》さでその外観の大きさを想像することが出来なかったが、それはもう原語の日本にさえ一つもない立派なことだけは確かだった。彼はひそかに驚くというよりももう黙った。
「あそこはこの国の芸術家が一番行くところです」とまたヨハンは附け加えた。

 翌朝の彼の出発は早かった。通りに朝霧のような薄靄《うすもや》がこもっていた。滞在中梶はヨハンに支払うべき案内料を一度も質《ただ》さずにしまったが、五日間の料金は意外に少額ですんだ。彼は他に謝礼を出したいと思うのに、もう残りのハンガリヤ金は少く、財布をは叩《た》いてそれを出そうとすると、ヨハンは記念に日本へこの国の金銭を所持して帰って貰いたいと梶に頼んだ。
 飛行場まで送って来てくれたヨハンと別れるときは、梶はその別れが辛《つら》かった。廻り始めたプロペラの音を聞きながら、
「それでは――」
 と、差し出す梶の手をしっかり握って振り振り、ヨハンも「さようなら、さようなら」と繰り返した。
 ああ、何んと沢山な御馳走が出たものだろう。と梶は思った。空へ舞いのぼって行く機体の窓から下を見降ろしたとき、彼は忘れずイレーネと喇叭の一組の夫婦のことも考えて、
「仲良くしてくれ、仲良く――」
 と、そう下に向って帽子を振るのも、またいつかそれはアンナにも振っている帽子に変っていった。



底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2001年2月10日公開
青空文庫作成ファイル:
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