医者の友人が、
「とにかく、あなたはハンガリヤへだけは、ぜひ行って来なさいよ。あそこは良い」
とそう云ったことを思い出したりして、疲れの溜《たま》った背中の痛みの容易に去りそうもないのがまどろかしく感じた。
「良いというと?」
と梶はそのときまた医者に訊《たず》ね返したのも、彼のそう云う表情には、歓喜の情ともいうべき思わず閃《ひら》めく美しいものが発したからだった。
「いや、あそこほど美人の多いところはない。それに日本人のもてること、もてること、もう滅茶苦茶にもてる」
医者はこう特別に強い表現で云ってまだ何か足らぬらしく、深く顎《あご》を胸へつけ、なお思い出の深い感動を顕《あらわ》そうとしかけたところへ、突然他の知人が傍へよって来て、まったく別の話をし始めたので、梶と医者とのハンガリヤに関する話は、そのままに立ち消えになってしまったことがある。
梶は寝ながらも今こそ医者の、顎を胸へ埋めようとした刹那《せつな》の表情を思うと、途中の車窓から見えた群がる真紅のひな罌粟が眼に浮び、あの花の中から何が出て来るのかと、多少の好奇心もまた覚えた。またこの友人の医者とは別の人人たちにも、梶は
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