はこの街が好きであった。しかし私はこの大津の街にもしばらくよりいられなかった。再び私は母と姉と三人で母の里の柘植《つげ》へ移らねばならなかった。父が遠方の異国の京城《けいじょう》へ行くことになったからである。小学の一年で三度も学校を変えさせられた私は、今度はもとの伯母の家からではなく、祖父の大きな肩の見えた家から学校へ通った。
 私はこの家で農家の生活というものを初めて知ったのだった。それは私の家の生活とは何ごとも違っていた。どちらを向いても、高い山山ばかりに囲まれた盆地の山ひだの間から、蛙の声の立ちまよっている村里で、石油の釣りランプがどこの家の中にも一つずつ下っていた。牛がまた人と一つの家の中に棲んでいた。
 私がランプの下の生活をしたのは、このときから三年の間である。私はこの間に、まだ見たこともない大きな石臼《いしうす》の廻《まわ》るあいだから、豆が黄色な粉になって噴きこぼれて来るのや、透明な虫が、真白な瓢形《ひさごがた》の繭《まゆ》をいっぱい藁《わら》の枝に産み作ることや、夜になると牛に穿《は》かす草履《ぞうり》をせっせと人人が編むことなどを知った。また、藪《やぶ》の中の黄楊《つげ》の木の胯《また》に頬白《ほおじろ》の巣があって、幾つそこに縞《しま》の入った卵があるとか、合歓《ねむ》の花の咲く川端の窪《くぼ》んだ穴に、何寸ほどの鯰《なまず》と鰻がいるとか、どこの桑の実には蟻がたかってどこの実よりも甘味《あま》いとか、どこの藪の幾本目の竹の節と、またそこから幾本目の竹の節とが寸法が揃《そろ》っているとか、いつの間にか、そんなことにまで私は睨《にら》みをきかすようになったりした。
 しかしこうしている間にも、私らは祖父の家から独立した別の家に棲んでいて、村村に散っている親戚《しんせき》たちの顔を私はみな覚えた。母は五人姉妹の下から二番目で、四人もあるその伯母たちの子供らが、これがまたそれぞれ沢山いた。一番上の大伯母は、この村から三里も離れた城のある上野という町にいたが、どういうものだが、この美しい伯母にだけは、親戚たちの誰もが頭が上らなかった。色が白くふっくらとした落ちつきをもっていて、才智が大きな眼もとに溢《あふ》れていた。またこの大伯母はいつも黙って人の話を聞いているだけで、何か一言いうと、それで忽《たちま》ち親戚間のごたごたが解決した。ときどき実家のあるこの村へ来ても、どこの家へも行かずに私の家へ来て泊っていったが、ある日伯母は東京へ行って来たといって私に絵本を一冊土産にくれた。それは東京の名所を描いた絵本だった。そのころは、私はもう私のいた筈《はず》の東京を忘れていて、私の一番行きたいところは、湖の見える大津と大伯母のいる上野の町とであった。この伯母には子供が五人もいた。遊女街の中央でただ一軒伯母の家だけ製糸をしていたので、私は周囲にひしめき並んだ色街の子供たちとも、いつのまにか遊ぶようになったりした。
 二番目の伯母は、私たちのいた同じ村の西方にあって、魚屋をしていた。この伯母一家だけはどの親戚たちからも嫌われていた。大伯母などは一度もここへは寄りつかなかったが私の母だけこことも仲良く交際していた。むかしはここは貧乏で、猫撫《ねこな》で声のこの伯母は実家の祖父の家から、許可なく魚屋へ逃げるように嫁いだのだということだったが、このころは祖父の家より物持ちになっていた。この伯母の主人はいつもにこにこした眼尻《めじり》で私を愛してくれた。私は祖父の家の後を継いでいる養子よりも、この魚屋の主人の方が好きだった。
「おう、利よ、来たかや。」
 こんな優しい声で小父がいうと、けちんぼだといわれている伯母が拾銭丸《じっせんだま》をひねった紙包を私の手に握らせた。ここには大きな二人の姉弟があったが、この二人も私を誰よりも愛してくれた。
 三番目の伯母は、私たちが東京から来たとき厄介になった伯母である。この伯母は気象が男のようにさっぱりしていた。この伯母の主人は近江《おうみ》の国に寺を持っている住職で、一人息子もまた別に寺を持っていた。伯母は家の中の拭《ふ》き掃除《そうじ》をするとき、お茶や生花の師匠のくせに一糸も纏《まと》わぬ裸体でよく掃除をした。ある時弟子の家の者が歳暮の餅《もち》を持ってがらりと玄関の戸を開けて這入って来た時、伯母は、ちょうどそこの縁側を裸体で拭いていた。私ははらはらしてどうするかと見ていると、
「これはまア、とんだ失礼をいたしまして、」
 と、伯母は、ただ一寸《ちょっと》雑巾《ぞうきん》で前を隠したまま、鄭重《ていちょう》なお辞儀をしたきり、少しも悪びれた様子を示さなかった。またこの伯母は、主人がたまに帰って来てもがみがみ叱《しか》りつけてばかりいた。主人の僧侶《そうりょ》は、どんな手ひどいことを伯母から云
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