年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
 涙を浮べて云うような久慈の切なげな言葉を聞いては矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉《よみ》に漂うごとくうつらとするのだった。


 矢代と久慈がブールジエ飛行場まで来たときは、ロンドンから千鶴子の来る時間に間もなかった。晴れ渡った芝生の広場に建っているホールの待合室で、パリを中心に光線のように放射している無数の航空路の地図を眺め二人は立っていた。ときどき夕暮から夜へかけて、突然、日本へ帰りたい郷愁に襲われるこのごろの矢代は、一途にここからシンガポールまで飛びたいと思った。
「ロンドンへもそのうち、一度行こうじゃないか。ね、君。」
 と久慈は久慈で何かの夢想にかられているらしい。
「ロンドンも良いが、それよりそろそろ僕は日本へ帰りたくなったね。」
「君も困り出したのか。外国へ来て、初め困らぬ奴は、必ずそ奴は悪者だというから、も少し君も辛抱するさ。」
「そんなら君は悪者の傾向があるぞ。」
「いや、僕だって困っているが、ただ僕のは困らぬ方法を講じているだけだよ。もうこうなれば楽しむより法はないからね。」
 どんなに意識が確かだと思っていても、どこかに矢張り病的なところの生じてしまっているのは否めないこのごろの二人だったが、どこが病的になっているのかそれぞれ二人には分らなかった。ただ一方が下へ下れば、他の方がそれが下っただけ上へ上げねば心の均衡のとれぬもどかしさにいらいらとするのだった。しかもそんな状態がいつも二人につづくのである。今もまたそんなにふとなりかかったとき、西の空からもうプロペラの鳴る音が聞えて来た。久慈は窓から空を眺めてみた。
「あれだよ。空から下って来るのも良いものだな。天降りというやつだ。」
 銀灰色の一台の単葉がエア・フランスのマークを尾につけつつ見る間に大きく空中に現れた。
「イギリスの飛行機に乗って来ないところを見ると、よほどパリへ来たかったのだね。降りるぞ。」
 矢代は入口の方へ廻って斜めの構えで旋廻して来る機体を眺め、もう真上からこちらを見ているにちがいない千鶴子を想像するのだった。やがて、飛行機が草の上を辷りつつホールの正面へ来て停ると、胴の中から昆虫のようにぞろぞろ人人が降りて来た。千鶴子はまだ廻りやまぬプロペラの風に吹かれながら六七番目に現れた。
「いるいる。」
 と久慈は云って喜んだ。ぴたりと身についた黒い毛の外套も船中の千鶴子とは違って立派であった。歩調も異境に馴れたと見え、誇りを失わぬ自信をもって歩いて来る。彼女はまだ二人のいるのには気附かぬようであったが、何んと女は早く変るものだろうと矢代は思った。
「変ったようだね。千鶴子さん。」
「うむ。」
 千鶴子一人が外人の中に混っているために、出て来た一団の空気にある光彩を与えているようなこの光景を見ていると、矢代は何んとなく見ぬ間に美しく育った名馬を見ているような明るい興奮を感じた。
 千鶴子は二人を見ると、にっこりと笑い懐しそうに近よって来た。久慈はすぐ千鶴子に握手をして、
「揺れなかったですか。」と訊ねた。
「いいえ、でもまだ耳が何んか少しへんなの。」
 久慈に握手した手を千鶴子は矢代にも出そうとしかけたが、ふと手をひっこめ、
「よく来て下さいましたのね。矢代さんにもお報せしようと思ったんですけど、よしましたの。」
 何んの意味であろうか、軽く千鶴子の笑ううちにもう後ろで荷物の検査が始った。
 とにかく、これで先ず良かった、と矢代は思い、検査台で荷物を開けている千鶴子の後姿を見ながらほッと安堵の胸を撫でおろした。マルセーユへ著いたときには、あれほど儚なく色褪せて見えた千鶴子であったのに今はこんなに美しく見えるとは、こちらもこれで、日日夜夜異国の婦人を見馴れたからであるからか。粗い肌の造りの大きいヨーロッパの婦人に比べて、千鶴子は一見底深い光沢を湛えた瑪瑙のようにきりりと緊って見えるのであった。
 しかし、それにしても何んという奇妙なことだろう。マルセーユであんなに憐れに物悲しく千鶴子の見えた最中に、今にも千鶴子と結婚しようと覚悟を決めたこともあったのに、それが一度び水を換えられた魚のように美しさを取り戻した千鶴子に接すると、も早やマルセーユの切ない心は矢代から消えて来るのだった。
 これで良い。これで千鶴子を一人ヨーロッパへ抛り放しても、もう自分の心配はなくなったとそんなことまで矢代は思った。千鶴子と久慈と矢代は、飛行館のバスには乗らず別にタクシを呼んでパリまで走らせた。
「ホテルは取ってありますよ。あまり僕らと離れたところは不便かと思って、近くにしました。」
 と久慈は千鶴子に云った。千鶴子の思いがけない美しさに、久慈も前夜のことなど忘れたのであろうと矢代は思ったが、しかし、それとて船中で千鶴子に示した親切さを思うと、自然と矢代も身を引くあきらめを感じて落ちついて来るのであった。自動車の中でも千鶴子と久慈とはしきりに話をしたが、矢代は絶えず日本風の淋しい顔のまま黙っていた。パリがだんだん近よって来ると、千鶴子は窓から外を覗きながら、
「もうここパリなの。何んて優雅なところでしょう。あたし、これじゃもうロンドンへ帰れないわ。」
 浮き浮きして云う千鶴子を久慈は抱きかかえるようにして、
「こちらにいなさいよ。女の人はパリじゃなくちゃ駄目ですよ。フロウレンスへ行くって、いつ行くんです。行くなら僕も一緒に行こうかな。」
「半月ほどしたら行きたいと思うんだけど、でも、あなたは駄目じゃないの。アンリエットさんとかいらっしやるって、お手紙に書いてあったじゃありませんか、」
 千鶴子のくすぐるように云う微笑を久慈は臆せずにやにやして、
「手紙に書くほどだから、分ってるでしょう。ね、君?」
 と突然鋭く冠せかかって矢代を見た。
「うむ。」
 と矢代はもううるさそうに答え、自分が千鶴子に久慈のような手廻しの巧みなことが出来ないなら、せめて外人から千鶴子を護るだけでも久慈の思案に従いたいと思うのだった。
「アンリエットはあれは矢代君を好きなんですよ。昨夕も僕はひどく弱らされてね。君、知らないだろう。何んにも。」
 と久慈は笑いながらまた矢代の方を覗いて訊ねた。
「そう。」
 千鶴子もちらりと微笑をもらして矢代を見たが、そのまま黙って自動車に揺られていった。
 矢代は、アンリエットが昨夜自分に好意をよせた表現を特に一度もしたとは思わなかったが、強いて千鶴子に弁解する要もまたこのときの彼にはなかった。
「千鶴子さんがパリへ来て下すったので、僕もほっとしましたよ。もう毎日毎日久慈君と僕は喧嘩ばかりしてるんです。」
「まア、どうして?」と千鶴子は意外な様子で笑顔を消して訊ねた。
「それを云うと、忽ちここでも喧嘩になるから云いませんがね。ここにいると、どういうものだか、一度云い出したら後へは退けなくなるんですよ。どうも妙なところだ。僕は云い合いなんか日本じゃしたことはないんだが。」
「そうだ、たしかにそうだ。」
 と久慈も云った。
「じゃ、困ったところへあたし来たのね。どんなことで喧嘩なさるのかしら。これからもそんなじゃ、あたし困るわ。」
「それが一口じゃ云えないんですよ。なかなか、こ奴――つまりね。」
 と矢代は少し早口で云った。
「ここじゃ僕らの頭は、ヨーロッパというものと日本というものと、二本の材料で編んだ縄みたいになっていて、そのどちらかの一端へ頭を乗せなければ、前方へ進んでは行けないんですね。両方へ同時に乗せて進むと一歩も進めないどころか、結局、何物も得られなくなるのですよ。」
「それや、そうね、あたしも何んだかそんな気がしますわ。」
 と千鶴子は幾らか思いあたる風に頷くのだった。
「しかし、それは、実は日本にいる僕らのような青年なら、誰だって今の僕らと同じなんだろうけれども、日本にいると、黙っていても周囲の習慣や人情が、自然に毎日向うで解決していてくれるから、特にそんな不用な二本の縄など考えなくともまアすむんだなア。へんなものだ。」
「いや、それや君、考えなくてすむものか、それが近代人の認識じゃないか。」
 と久慈はまた横から遮った。
「それは一寸待ってくれ。それはまア君の云う通りとしてもさ、しかし、日本でなら人間の生活の一番重要な根柢の民族の問題を考えなくたってすませるよ。何ぜかと云うとだね、僕らはその上に乗ってるばかりじゃなく、自分の中には民族以外に何もないんだからな。自分の中にあるものが民族ばかりなら、これに関する人間の認識は成り立つ筈がないじゃないか。認識そのものがつまり民族そのものみたいなものだからだ。」
「そんな馬鹿なことがあるものか、認識と民族とはまた別だよ。」
 と久慈はもう千鶴子を迎えに自分らの来たことなど忘れてしまったようだった。
「しかし、君の誇っているヨーロッパ的な考えだって、それは日本人の考えるヨーロッパ的なものだよ。君がパリを熱愛することだってまア久慈という日本人が愛しているのだ。誰もまだ人間で、ヨーロッパ人になってみたり日本人になってみたり、同時にしたものなんか世界に誰一人もいやしないよ。みなそれぞれ自分の中の民族が見てるだけさ。」
「しかし、そんな事を云い出したら、万国通念の論理という奴がなくなるじゃないか。」
「なくなるんじゃない。造ろうというんだよ。君のは有ると思わせられてるものを守ろうとしているだけだ。」
「それや、詭弁だ。」と久慈は奮然として云った。少し乱暴なことを云い過ぎたと矢代は後悔したが、もう致し方もなくにやにやして答えるのだった。
「何が詭弁だ。万国共通の論理という風な、立派なものがあるなら、僕だって自分をひとつ、そ奴で縛ってみたいよ。しかし君、僕だって君だって、それとは別にこっそり物いいたい個人の心も持っているよ。それは自由じゃないか。」
 殊さら千鶴子が傍で聞いているからの議論ではもうなくなり、二人の青年の捻じ合うような頭の激しいもつれのまま、いつの間にか三人を乗せた自動車はパリの市中へ突き進んでいた。それでも久慈の興奮は静まらなかった。彼は矢代の膝を叩きながら、
「君の云うことはいつでも科学というものを無視している云い方だよ。君のように科学主義を無視すれば、どんな暴論だって平気に云えるよ。もしパリに科学を重んじる精神がなかったら、これほどパリは立派になっていなかったし、これほど自由の観念も発達していなかったよ。」
 議論の末に科学という言葉の出るほど面白味の欠けることはないと矢代は思い、久慈もいよいよ最後の飛道具を持ち出して来たなと思うと、自然に微笑が唇から洩れるのであった。
「科学か。科学というのは、誰も何も分らんということだよ。これが分れば、戦争など起るものか。」
「そんなら僕らは何に信頼出来るというのだ。僕たちの信頼出来る唯一の科学まで否定して、君はそれで人間をどうしょうと云うのだ。」
 傍に千鶴子がいるので今日の争いは手控えようと矢代は思っていたのだが、しかし、久慈は矢代に食いつかんばかりに詰めよった。矢代はそれを引き脱した。
「君はヨーロッパまで出かけて来て、そんな簡単なことより云えないのかね。科学などということは、日本にいたって考えつけることじゃないか。」
 久慈はさッと顔色が変ると顔の筋肉まで均衡がなくなった。
「君はそれほど知識を失ってしまって得意になれるというのは、それやもう、病気だ。病気でなければ、そんな馬鹿な、誰でも判断出来る認識にまで反対する筈がないじゃないか。」
「僕は君の云うことを、間違っていると云うんじゃないよ。そんな、誰にでも分っていることなど、何も君からまで聞きたくないと云うだけだよ。分りきったことを、間違いなく云えたって人間この上どうともなるものか。」
「そんなら、君みたいに間違いを云えと云うのか。」
「僕の云うことは、君のような、科学をまじないの道具に使うものには
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