読するフランス語が欠伸とは違う方向の草の中から聞えて来た。大きな声で話していた矢代も急に客間へ出されたように声をひそめた。
「これや、蕨の原っぱどころじゃないぞ。あちこちにいるんだ。」
「そうらしいわね。」
 下手な手つきで煙草を吸っていた千鶴子は、突然そのとき俯向いたまま苦しげに咳き込んだ。驚いて矢代は見ると、千鶴子の吐きつけた煙が地肌にこもって、あたりの草の複雑さに応じつつ下からゆるやかに跳ねのぼって来た。
「横着をするもんじゃないわ。おお、苦しい。」
 涙を泛べてまだ咳きつづけている千鶴子の耳の縁に、赤い斑点のある丸い小虫が這っていた。矢代は虫を払い落して軽く千鶴子の背を叩いた。咳き熄んだ千鶴子と矢代はもう黙った。微風が吹くと森の木の香が新しく蘇った。胸が草で冷めたい。千鶴子は延ばした腕に頬をつけ、草の根をむしりながら低い声でパリの屋根の下を口誦んだ。
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かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたんどるまん
だんのうとるろっじゅまん
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 矢代は自分の吐いた煙の輪が灌木の間を廻っているのを眺めていると、どこかで樹を折る音がした。ひと節唄ってから千鶴子はまた黙り込んでいたが、
「ピエールさんね、日本へいらっしゃるんですって、日本が好きなのよあの方。」
 と云って矢代の手の甲へ草の茎を真直ぐに刺した。
「君の後を追って行くんですか。」
「そんなんじゃないわ。」
「しかし、それや、怪しい。」
 矢代は笑いながら千鶴子の手の上へいまいましそうに土をかけた。
「日本の婦人は優しくって、理窟を云わないのがいいんですってよ。あたし、やさしくも何もしないのに、そんなに仰言るの。」
「分らないぞ日本の婦人は。やさしそうに見せかけて凄いのがいるからな。」
 あらひどいひどいと云いつつ、千鶴子は半身を起して矢代の腕を揺り動した。矢代は横に草の上を転げた瞬間ふと強い土の匂いを嗅いだ。思わず転げ停るとそのまま彼は、胸を締めつけられたようにじっとしていて云った。
「これや懐しい匂いだ。久しぶりだな。一寸この土の匂いを嗅いでごらんなさいよ。」
 矢代は無理に千鶴子をひき据えるようにして土の上へ頭をつけさせた。千鶴子も俯伏せになっていたが黙って何も云わなかった。
「ああ日本へ帰りたい。この匂いだけを忘れちゃ駄目だ。」
 こう矢代はひとり呟きながら膝を揃えてまた匂いを嗅いだ。頭の心が急に突きぬかれていくような酸素の匂いで粛然とした気持ちが暫く二人を捕えて放さなかった。


 着替える真紀子を待って久慈がホテルを出たころは、もう正午近かった。道路に開いたマンホールからむっと生温い炭酸瓦斯が顔にあたった。歩く足もとの壁の空気抜きからも、地下室の冷たい風が不意に吹き上って来たりした。
 食事場へ行くのに久慈は裏路を選んだので、日光のあまり射さぬ傾いた石壁の間の通りは、駄馬の蹄の音がかたかたと強く響いた。売れ残った青物の萎びたのが荷車の上で崩れている。
 久慈も真紀子も、昨夜はどこへ行ったかなどと訊く詮索癖など、いつの間にかなくなってしまっていた。互に心に想うことは、まるで別のことだという一点だけ知り合っている二人のように、何か足もせかせかと早まって動いてゆくのだった。
 剥げ落ちた壁の向うから羽根まで黒い雀が飛び立った。その後に、火の消えた瓦斯灯と枝を刈り落した坊主の樹が立っている。久慈は鋪石の上へゴム管から水の流れ出ているのを飛び越え、ずるりと靴の辷るのを危く踏みこたえたとき、初めて真紀子を見て笑った。
「辷るよ、そこ。」
「そう。」
 二人は機嫌が悪いのでもない。どちらか物いう方が負けだと思う気ぐらいが、理由もなくただ神経に映り合っているだけだったが、なぜまた御機嫌を取り合わねばならぬのか考えればいまいましく思う今日の二人だった。
「昨夜、高さんに会ったんだってね。」
 と久慈は真紀子を振り向いて訊ねた。
「ええ、オペラで会ったの。」
「踊りに行ったんだって?」
「ええ、モンマルトルへ行ったの。」
 隠すかと思いのほか意外に真紀子ははきはきと答えるので、少し閊えていた久慈も急にほぐれ始めて元気になって来るのだった。
「高さん、遊びに来ないかな。いろいろ、中国のこと、訊いてみたいことも、あるんだが。呼びなさいよ。」
「いつでも来るわ。あの人、お呼びしてもいいなら、電話をかけてよ。」
「じゃ、頼もう。」
 真紀子と高との間で、昨夜どのような事があったのかもう久慈は考えるのはうとましかった。壁に蔦の巻き絡んだ家の角を曲ったとき涼しい風が吹いて来た。すると、その風の中から出て来たようにカメラを下げた塩野が向うから歩いて来た。いつも日本人の行く所は定っているので、会い始めると日に二度三度と会うことはここでは珍しいことではなかった。
「しばらく。」
 久慈はとかく紳士を気取りがちな十六区の日本人とは放れていたが、この塩野には特に十六区の臭いがなく、礼儀だけは正しいので彼は好んでよく遊んだ。
「写真を撮ろうと思ってぶらぶらしてるんだが、どこもお茶を飲ましてくれない。このへんにどっかないかな。」
「じゃ、いよいよやったな。ドミニックへ行こう。あそこなら大丈夫だ。」
 久慈は近くの白系露人の経営しているドミニックの方へ歩いた。そこは帝政時代の伯爵一家の店だったが、スープが美味くて安いので、金が無くなると久慈たちのよく行く家である。
「通りはどこもみな休んでるの。」
「すっかり閉店だ。これからノートル・ダムへ行って、あそこを今日は一日がかりで撮ろうと思ってるんだ。」
 写真専門の塩野は、ノートル・ダムに全精力を打ちあげていることを前から久慈は聞いていた。ドミニックへ行くと食事場に困ったものと見えて、もう東野の退屈そうな後姿が腰かけていた。久しぶりの敵の姿を見つけたように久慈は後ろから東野の肩を打った。東野は振り仰ぐと、「やア。」とも云わず、にたりと笑ったまま黙っていた。塩野は久慈よりも東野との方が前からの交際であったから、真紀子だけ久慈は東野に紹介しかけたとき、ふと塩野も真紀子と初めてのことに気づいて彼にも紹介した。
 四人は細長い食台に一列に並んでそれぞれ食べたいものを註文した。見渡したところ、いつもとこの料理店は違わず働いていたが、窓の外いちめんの左翼の大海嘯のまっ只中に突き立っているさまは、ただのありふれた日常の生活ではなかった。いつも黙黙とした品位のある老齢の伯爵夫人は、カウンタアの所に坐ったまま笑顔を人に見せず、また誰とも話をしなかった。頭の上に帝政復興の寄附金を集める箱が傾いてかかっている下で、ボーイの立ち働く姿を見ながら、少しでも使用人の袖口から襯衣が出すぎているのを見附けると、夫人は黙って指差して直させた。使用人の中のロシア革命を見て来たものたちは忠実に働いたが、パリの風に馴染んだまだ若いものたちは、一家の裾を濡らすように下から上へと色を変えた。
 あるとき、ここに使われていた二十二三のボーイで、反抗して家を飛び出て他家へ入ったのが、突然この店へお客となって現れ、
「おい、スープをくれ。」
 と昂然とした元気で命じたことがあった。命じられた方は初めはにやにやしながらスープを出さなかった。
「おい、スープ出せ。」とまた青年は命じた。
 前には自分の下だった男ながらも今はお客だから仕方なく店の者はスープを出したが、沢山の使用人らは動きを停めて一斉にその青年を見詰めていた。ある者は怒ったような眼をし、ある者は羨望の表情をしていたのを久慈は記憶している。
 一列に並んでいる久慈や塩野は店が店であるだけに、外で暴れ廻っている左翼の風波については話さなかったが、次第に傾きかかろうとしているこの一家の静けさが、使用人たちの云うに云われぬとぼけた顔色に顕れているのを誰も見逃しはしなかった。
「それはそうと、日本と中国の問題、大使館の方はどんな観測かね。」
 と久慈は塩野に訊ねた。
「それが油断がならぬらしいんだ。もっとも僕はただ手伝いだけだから、委しいことは知らないんだが、だんだん険悪になるばかりらしいんだ。とにかく、遠からず始まることだけは確かだろうな。」
「しかし、こっちだって相当に危いね。この模様じゃ。」
「そうだ。どっちが先きかというところをお互に知ってるから、これで案外自重はするだろうが、しかし、戦争が起ったら、僕は写真師だから、誰より真っ先に飛行機に乗せられて戦場へやられる。そのときは、諸君より一足お先に僕は失礼するよ。」
 こう云って塩野は敬礼の真似をしながら快活に笑った。久慈は塩野のその覚悟の美しさに瞬間はッとなったが、事態はそこまで自分にも迫って来ているのかと思い吐息をつくと、しばらく黙って赤蕪を噛っていた。
「吾人は須らく現代を超越すべし、というわけにはいかんのかね。ここの家みたいに。」
 久慈のこう云うのに突然横から東野は頓狂に笑い出した。
「それや真面目だよ。久慈君、寄附金の箱があそこに下ってるじゃないか。」
「いや、あれは空だ。」
「しかし、横になってるぞ。」
 またどっと四人は笑ったとき、その笑い声の中で久慈だけ誰よりさきに暗い表情に変っていった。
「東野さん、あなたはこの間から、僕ばかりやっつけるが、どうしてそんなに僕が気に食わぬのです。」
 と久慈は東野の方へ向き変って詰問の調子だった。
「それや、君があんまり現代を超越しないからさ。」
「いや、もっと大真面目な話でですよ。」
 なるだけ争いを避けるつもりで云ったにも拘らず、久慈の言葉は強かった。
「冗談じゃない。日本人は誰だって、一度は現代を超越してしまったのが伝統なんだから、僕の云うのが冗談に見えるんだ。」
「それやそうだ。超越してから後の問題が、僕ら日本人の問題だ。」
 と塩野はもう笑わず、心にかかっていた疑点を晴らしたらしい口振りでスープを飲んだ。
「しかし、現実じゃ、僕らはそう無暗と超越するわけにはゆかんですよ。そこが苦しみという奴じゃないか。」
 塩野の方へ向き返った久慈は、一層強い調子になってスプーンを振り振り、
「そうでしょう。日本人の伝統が、かりに現実を超越したものだとしたって、西洋から這入って来たものが超越したものじゃないなら、僕らは知らぬ顔の半兵衛出来ますかね。出来なけれや。どっちもの最小公約数というものは、大切にしなきゃならん。これを大切にせずに、僕ら近代人に何んの誇りがあるというのだ。何んの意義があるというのだ。」
「しかし、最小公約数の単位は一だ。一の質がどこだって違ったらどうする。」
 東野は塩野へ詰めよった久慈の質問を横取りして云った。すると、久慈はもう何もかも忘れたように前のめりになって上気しながら、また東野の方へ向き返った。
「一の違う筈がない。一が違えばここから出て来る抽象性というものは皆違う。それなら世界は成り立たん。一とは自我だ。自我を信用せずに、何をいったい僕ら信用するのだ。」
「君は自我より一の方を信用してるのだよ。もし自我を真に君が信用するなら、日本人という自分を信用するに定っているのだ。ところが君は、日本人を信用したことがない。公約数ばかしを信用して、それが自我だと思っている。そんなら、君の自我はどうしたんだ。君の中の日本人はどうしたのだ。」
「僕は日本人ならこそ一を信用するのだ。一に信頼を置かぬ日本人なんか、日本人じゃない。」
「そんなら、一と一とよせるとなぜ二になるのだ。」
 いつもの東野の癖の突然飛び越した質問に、久慈は彼の顔を見たまま暫く答えることが出来なかったが、にやりと笑うと、
「何んだそれや。」と呟いた。
「何んでもないさ。尋常一年生だって出来ることだ。一と一とよせるとどうして二になるのかというんだよ。二にするものが君の中にあるだろう。その、するものが自我じゃないか。これは一でもなければ二でもない。子供だけは欲しいというものだ。」
「そんなもんいらんよ。」
 馬鹿馬鹿しさに久慈は大きな声を出して笑いながら椅子の後へ反り返った。東野は久慈の大口開
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