いて疲れるとここへ来て、このベンチへ一人ひっくり返って寝てるんですよ。いつも人のいたことはないんだ。この絵はパリの黄金期にいたモネーが描いたんですが、実に写実的な緻密なものですね。いかにも池の中に自分がいると思うからな。」
「そうね。何んだか日本の山の中にいるような気がするわ。よくこんなところ、奈良にあるじゃありませんか。」
「そうだ。奈良だここは。」
 矢代は半身を横にしながら肱をついた。眼前の継ぎ目のない沼はすべて絵だと思っても、天井の適度の光線の加減に応じた遠近法で、絵もこんなに事実の自然に近づくものかと矢代はいつもここで驚いた。
「やはりこんなところをパリの人も欲しいのね。」
「それや、欲しくてたまらないんでしょう。それにこのベンチの置き方も上手いですよ。こうしていると自分が人間だと思わないんだもの。」
「あら、そうね、蛙ね、まア面白いこと。ほんとにあたしたち蛙だわ。」
 千鶴子は再び背のないベンチを矢代と反対の方へ向き変って足を組んだ。睡蓮の花の間に渦紋の漂い密集した浮葉の群青のその配置は、見れば見るほど一つとして同じ形のもののない厳密なリアリズムの沼だった。
「東洋人が自然にうんざりしてしまって、科学がほしくてたまらないときに、こちらじゃもう科学にはうんざりして、自然がほしくてたまらないんだな、もう精神が科学に疲れきってしまっても、まだ科学的な厳密さより信用しないという絵だ。人間は、いったい、どうなるんだという、これは地獄絵だ。そうだ、久慈をひとつここへつれてくるんだった。」
 こう云って矢代は起き上ると頭は自ら空を仰ぎたくなるのだった。
「そんなら人間はどんなになるんですの。」
 千鶴子はくるりと矢代の方を振り向いて訊ねたその拍子に、あまり真近に矢代の顔があったので思わずまた後ろへ身を退いたが、千鶴子のその眼の大きさに矢代は質問が何んだったのかふと忘れた。昨夜オペラの桟敷の中で千鶴子の腕を巻き込んだときには、ソファに同じ方向を向いて坐っていたときだったので、そんな軽はずみなことも自然に出来たのであったが、今は互に背を合せるように坐っている一つのベンチだった。身体のねじれと一緒に心もねじれたように胴で曲るのを感じつつ、矢代は動かぬ千鶴子の眼の中のしんと静まった一点を今は何より美しいと思って見た。
「あなたがそっちを向いてると、話が途切れて面白くないな、僕たち蛙になってるんだから、パンも食わさぬ人間を一つ今日はやっつけよう。何んだこんなもの。」
 と矢代は云ってまた睡蓮の絵を眺めた。
「ほんとにコーヒー飲みたいわね。出ましょうか。ロンパンへ行ったらきっとあってよ。」
 千鶴子が立ち上ったので矢代も立って外へ出た。もうかなり空腹だったが、二人はサンゼリゼの下のロンパンまで歩くことにして広場の噴水の傍をわたって行った。


 ロンパンまで行ってみてもそこも今日は休みだった。この右翼の巣窟のようなサンゼリゼいったいの食事場が休みだとすると、もう二人はどこへ行って良いのかいよいよ途方にくれて来た。やむなく二人はそこの辻のベンチにまた腰かけて休んだ。坂の上の凱旋門の群像の彫刻が方形の胴にうす白く泛んで見えた。その門の中に欧洲大戦に戦死した無名戦士たちの墓があるので、丁度ここは東京で云えば、靖国神社をいただいた九段にあたるゆるやかな坂の下だったが、何事か街に問題が起る度びに、この無名戦士の墓を中心にして起って来るのが例である。
「もうすぐ巴里祭ですが、あそこの無名戦士の墓の奪い合いで、左翼と右翼の衝突がもう今のうちから起っているんですよ。その日になったら、ここでそれが爆発すると人人はいうのですがね。ここは王さまの無いところだから、喧嘩をすればきりがない。」
「今からそれが分っていて、どうして防げないのかしら。」
 千鶴子はまだ訝しそうな声だった。
「それはここのは、戦死した無名戦士が王さまみたいなもんでしよう。だから墓が物を云わないのを良いことにして、右翼はわれわれ伝統の勇士の墓というので、これを自分のものとしようとするのでしょう。そこを左翼は、いやこれこそわれわれ民衆の勇士の墓だ。これこそわれわれのものだと主張する。ところが、今度だけは政府が左翼だからいつものようにはゆかんので、左翼を守らなくちゃならない。そうなると、右翼の伝統派はいつもより結束するだけじゃなくって、こうなればもう伝統のために死ねというので、必死の反抗になって来るから、爆発が一層大きくなるというわけです。」
「じゃ、どちらの云うこともそんなに本当に見えちゃ、みな迷うのももっともね。そんなに大切なことに迷っちゃ、この国の人たちどうするつもりかしら。」
「そこがどうするわけにもいかんのだな。何んといっても、生活する頭の原点が墓なんだから、それならこれは死んだ動かぬ点でしよう。つまり完全な無だ。ところが、王さまのある国はその原点が生きた有の一点だから、つまり生命です。生活の原点が無と有とじゃ、そこを中心にして動いている人間の頭がまるで違っていくわけですよ。たとい同じように見えたにしたって、有るものと無いものとじゃ、やはり違う。」
「じゃ、日本とこちらは皆ちがうのかしら。」
 千鶴子の眼は凱旋門を見詰めたまま放れなかった。
「それや同じ所もありますよ。だけども、中心を墓という無にしたものなら、それは人間というものは、みな墓だと思い込んだ人の無の頭の中だけで、幾何学をやっているようなものですよ。つまりそれは科学でしょう、そのような科学の中でなら、これなら同じだ。しかし、僕らは何んと云っても生きているんだから、生きてる意義というものは、人をみな墓だとみて幾何学をやることか、あるいは生きているからは、むくむくと動いてやまぬ愛情が必要に定っているんだから、それを互に何とか清純なものにしたいと希う努力にあるのか、という風な問題が、いろいろ形を変えて顕れているんだと僕は思うんです。そこが分らんものだから、左翼と右翼も人の分らぬそこのところにつけ込んで、まことしやかな理窟で世の中の生きてる頭の引っ張り合いをするんだな。日本の知識階級のものにしても、自分を死んだ墓だと思い込む方法を西洋から教え込まれて来たものだから、人間のいない世界でだけ完全に立派なもの以外に信用しない癖を、だんだん植えつけられて来てるんですね。つまり科学より信用しない。それとはまた別に、その死んだ世界でこそ美しいものを、生きてる世界にまで全部あて嵌めねば承知をしないのが、これがなかなかたいへんな勢いなんです。」
「それ久慈さんのことなんでしょう。」
 と千鶴子は先廻りをして笑って訊ねた。
「そうそう、久慈もそれです。それで僕はあの男と絶えず喧嘩だ。久慈の云うような、誰から見たって立派に見える言葉ばかり人に押しつけて云っていちゃ、人は興奮して立派にみな死んでしまう。殺したけれや殺せと、このごろは面倒臭くなったから、あまり喧嘩もしませんが、しかし、そうも云っておられんからな、まだまだ喧嘩だ。」
 千鶴子は分ったところだけ頷きつつもまた視線を凱旋門の方形の肩に上げ、
「あれお墓なのね、あたし、ちっとも知らなかったわ。」
 と小声で羞しそうに云った。
「あれはここの生活の墓ですよ。無だ。あの無というお墓から、放射状に大通りが八方へ通っているでしょう。僕らはその一つのここにいるんですが、しかし、ここにこうして生きて話してる。ところが、生きていながら朝からコーヒー一杯も飲まされないというのは、これや無茶だ。」
 真面目に聞いていた千鶴子も思わず矢代の皮肉に、「くッ。」と笑ったが、意外におお真面目な矢代の表情にまた自然と黙って聞くのだった。
「この通りがお墓の無から出てるから、お茶なしでもないだろうが、しかし、日本の通りはお墓の無と有とが重なった一点から出てるから、どんなになったって、飯が食べられぬということは絶対にない。御飯が食べられないより食べられる方が有り難いに定ってるんだけれども、それを馬鹿にするものが日増しに多くなって来てるんです。そんなら、つまりお墓へ吸いよせられて行ってるのだ。おまけに、さア急げと号令かける男まで出て来てるから、お墓詣りに、血を流す。」
「ちょっと、それはここのお墓のことなの、日本の? どちらですの。」
「ここのお墓だ。」
 と矢代は云って笑った。
「日本にはお墓詣りに血を流したものなんかいやしない。流さぬためにお墓詣りに行くんだが、ここのは血を流すためのお墓詣りみたいなものだ。」
 矢代はふとこう乱暴に云ってから、突然、
「どうして僕はここへ来ると、こんなにお国自慢がしたくなるんだろ。少し慎しまなきアいけないかな。」
 と苦笑してあたりの美しい街路樹の森を眺めた。厚いガラスの筒口から吹き昇っている巨大な噴水が、広場いったいに霧のように吹き乱れて散り、マロニエの葉の間から滴りを顔に辷り落した。風船の塊りが樹の幹の間で揺れているその向うから乳母車が動いて来る。千鶴子は盛り上った薔薇の丸い花壇の中を絶えず辷ってゆく自動車を眺めて云った。
「これみんな前には馬車だったのね。そのころあたし一度来てみたかったわ。どんなに良かったでしょうそのころは。」
「あ、そうだ。このあたりのベンチでアルマンが椿姫を待ったんですよ。ロンパンの大きな樹のある前のベンチと書いてあったようだから、たしかにこのあたりに違いないのだ。あるいはこのベンチかもしれないぞ。」
 矢代はおどけた風にそう云いつつ頭上の二かかえもあろうマロニエの大木の葉を仰いだ。
「ここだったら面白いわね。でも、これは鉄のベンチだから、そのころと変っちゃいないわけよ。」
 千鶴子も好奇心に満ちた笑顔でベンチの背を撫でてみたり組み合った八ツ手のようなマロニエの厚い繁みを仰いだりした。
「何んでも馬車で椿姫がブロウニュの森の方へ、ここを通って毎日行くんですよ。それが日課だったんですね。それを聞きつけたアルマンが、友人とここで待ち伏せしてるんです。椿姫はイタリアの麦藁帽子に、レースの飾りのついた黒い服を着ていて、乾葡萄を入れた手下げ袋を持ってたというんですがね。」
 椿姫の細い優雅な姿を想い描いている二人の顔へ、風の方向に揺れ靡いていた噴水の霧がゆるやかに廻って来た。姿を揃えた樹の幹の間へ落ちている日光の縞の中でひそかに虹が立っていた。「美しいところだなここは。こんな美しいところでももうパリの人間は、ここに美しさを感じなくなってるんだから、感覚の変化というものは恐ろしいものだ。」
 ふと矢代はそう云ってしまってから、思わず千鶴子の頭に響かせた別の恐ろしさをはっと考え、我知らずに出た言葉を呪い押し込めたくなるのだった。全くまアいわば幸福のある状態に達している二人の間へ、やがて麻痺していく男女の感覚の行方を、今から予想させるとは不届至極だと矢代は思った。しかし、自分はもうこれ以上のことを二人の間で望むべきでないと思い、またそのようなことを望むなら、今はそれさえ達せられるだろう幾らかの己惚れさえあったが、恐らくこんなときには、誰でもそのような男女の頂上の望みを持つに定っているからには、その胸のどきどきとするあの羞らいだけは、せめて千鶴子にだけさらけ出したくはないのだった。そんなことは、下劣なことだと別に矢代は思わなかったが、どんなに巧妙な理窟があろうとも、相手の婦人に窮地に飛び込むことを要求しているのに間違いはないのであってみれば、せめてやむなくなるまでは、一層彼はその行為を心中認めたくはないある心が抜けきれなかった。
「裸身になれ、裸身に。」
 東京にいるときでも友人たちは矢代によくこう云って迫り、叱り、忠告し、果ては嘲笑さえしたものであったが、今も矢代はその声声が聞えて来て、広場の樹樹もみなにたにたとした嘲笑の顔にも見えて来る。しかし、もし本当に裸身になって見よ。そんなことが出来るわけのものじゃあるまいと矢代は思う。
「みんなの奴、嘘をついてるから、裸身になって見せてるだけさ。あのえへえへ喜び勇んだ醜行のどこが裸身だ。人の眼をくらますために醜行を演じる
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