持ちでありすぎる二人だった。千鶴子も退屈さのあまりに考えついた趣向とはいえ、思い切って云い出したその企ては、氷河の断層を渡ったときのようなある未知の愉しさを矢代に与えた。これで嫉妬を感じれば申分のない芝居だと思ったが、千鶴子には信頼の方が先に立ち、手にあまる柔軟な滴りをまだ矢代は彼女から受けたことがなかった。一度それを受けてみたいとそう思うと、ついでにお洒落も今夜を機会にしてみたくなるのだった。
「あなたがピエールという人と行くのなら僕も一つ誰かをつれて行くかな。僕のお相手してくれるのは、まア真紀子さんぐらいなものだが、そうだ、真紀子さんに頼もう。」と矢代は膝を打った。
千鶴子は一瞬笑いを停めて矢代を見たが、すぐまた前のような平静な美しさで、
「どうぞ、その方が退屈しなくっていいわ。」
と笑うと、そのとき急に大きな声を出し始めた向うの、激論している日本人の方をびっくりした風に振り返った。
「何に云ってるのかしら。あれ。」
「議論だ、面白いよなかなか。」
矢代は頭を後ろへ反らし議論嫌いの千鶴子のびっくり顔をさも楽しそうに見ながら、あまり千鶴子と仲良くない真紀子に頼み込む難しい方法をあれこれと考えた。這入って来る客の雨外套から垂れる滴で床の斑点が拡がって来た。窓ガラス一面に浮んだぶつぶつの露が重さに耐えかねて蛇のように下って来る。パリ党とベルリン党とは疲れる様子もなく、ついにはパリのマロニエの美しさとベルリンの菩提樹の美しさとの云い合いまでに及んで来ると、マロニエの下で飲む葡萄酒、菩提樹の下で傾けるビールの美味と云った風に、転転と議論は移り変っていって尽きなかった。もうどちらも恋いこがれているひたすらな情熱で、眼の色まで変っているその様は、日本の知識階級を抽象したそっくりそのままの現れのように矢代には見えた。このようになれば国粋主義者の怒り出すのは道理であると彼は思い、それでもなおそのまま我慢をじっとしている民衆の底の義理人情という国粋が、も早や国粋の域を脱したただならぬ精神の訓練の美しさのように矢代には見え始めて来た。しかも、この黙黙とした精神だけがひとり知識階級に勝手な熱情で論争せしめ、それを誇りとしてにこにこ笑って聞いている、まるで母親のような優しい姿となって泛ぶのだった。
いつの間にか雨が小降りになっていて、空も明るく晴れて来た。すると、街路樹の生き生きとした間からひとり東野がこちらへ歩いて来た。彼は千鶴子たちのいるのに気附かぬらしい様子で奥へ這入ると、論争している二人の日本人の傍へ坐って、
「やア。」と云った。
しかし、ベルリン党とパリ党の興奮した論争は東野に会釈もせずまだ続いた。そのうちに矢代たちに気が附いた東野は傍へ来て千鶴子の横へ腰かけると、
「どうも昨夜は面白かった。」
と云って論争している二人の方をまたそこから見続けた。
「何んですか、面白いって。」
「あれだ。あの論争は昨夕からまだ続いてるんだよ。もうやめたかと思って来てみたんだが、まだやっとる。」
三人は一緒に笑った。東野の話では一人のパリ党の方はソルボンヌへ生物学の勉強に通っている画家で、もう一人の方はベルリンの特派員で日本へこれから帰るところだったとのことだった。東野と画家と特派員の三人は女たちが裸体で踊る踊場へ昨夜見物に行ったところが、あの二人は入口の所でふと議論を始めたのがきっかけとなり、裸体の女の群れが波のように踊っている中でも振り向きもせず、議論を朝の白みかけるまでやり続け、そのまま家へ帰って寝て、今朝ここで会う約束をしてまた続きをやり出したのだそうである。
「はだかん坊の中で議論するとは見ものだろうな。」
と矢代は一層面白がって笑った。
「それはなかなか見られない風景でしたよ。ああいう議論というものは僕は見始めだな。周囲はみな一糸もまとわぬ薔薇色の波の律動なんだよ。その中で島みたいにあの二人の洋服だけが固まってじっとしてるんだからな。それも、政論と思想問題ばかりだ。」
「じゃ、夜が明けたって倦きなかったでしょう。」
「倦きるどころじゃない。有史以来世界にこんな議論はあっただろうかと思って、恍惚として僕は夜を明した。幸い一人の方は明日帰るから良いものの、これでもう一週間もいれば二人は死んじまうね。」
「そいつは日本精神だなア。」
三人は笑いながら二人の方を見たとき、パリ党の方は固めた右の拳の角で卓を叩きつつ、フランスには昔から地下に隠してある金塊の額は計り知れぬという説明を縷縷として述べていた。どちらも論理そのものの正否よりも、ただ負けたくない感情だけが論理を動かしているのだった。したがって議論が議論ではなく、も早や恋いこがれている感情だけなのである。矢代も久慈との毎度の角突き合いもあのようなものだったと思い、まだこれは俺は駄目だと、瞬間自責を感じて通りの晴れ間に葉を拡げたマロニエに眼を移した。
「それはそうと、東野さん、久慈は二三日行方不明で困ってるんですが、あなたの所へ顔を出しませんでしたか。東野のおやじ来んかな、やっつけてやるんだがって云ってましたから、もしかと思いましてね。」
「来んな。どこへ行ったんだろ。」
東野は考え込む風だったが、別に心配そうな顔はなく、にやにや笑って顎を支えながら云った。
「僕に怒ったって、それや殊勝な男だな。」
「何んだかこの間の議論をときどき思い出すらしいですね。」
「もうじきまたひょっこり現れるだろうが、顔を出したらもう一ぺん揉みくちゃにしようじゃないか。そうするとあの男面白くなりそうだ。あのままだといつまでここにいたって無駄だからな。」
「まだやるんですか、それや少し気の毒だ。」
矢代はこの調子だと今に自分も叩きのめされそうだと、内心覚悟を決めて薄笑いをもらしつつ、どちらへ転がるか分らぬ無気味な東野の表情に注意した。
「そうすると、僕もまだこれや、東野大学なかなか卒業出来んらしいですね。」
「君もまだだよ。君は人間の過去ばかり考えたがる。それはいかん。」
「いや、未来だって考えてる。」
矢代は案外真面目に突かれた驚きを色に出して反抗した。
「そんな未来は未来じゃないさ。」
「しかし、そんな未来って、僕の考えてる未来はあなたに分らないじゃありませんか。」
「分るさ。君のいつも云うことは人間の過去の美しさを信頼して物事を考えてるだけだ。それじゃつまらん。過去なんかいくら美しかったって、良かったって、何になる。あそこの二人の論争だって、フランスとドイツの良い所ばかり云い張っているだけで、過去ばかりより考えていないからいつまでたってもあの醜態だ。傍から水をぶっかけたって、まだ水の中で云い合いしとる。はッはッはッは。」
東野は笑いながらすっと立ったかと思うとそのまま飄然と外へ出ていってしまった。矢代は理由もなく殴りつけられたようで後を追っかけて行く気もしなかったが、それでも他人の非難は一度は慎重に考えたくなり、再度の武装の具足を手足に巻き固めたくなるのだった。
「分らないな。僕が未来を考えないって、どういうことだろう。またこれは喧嘩の種が一つ落ちた。」
「だって、東野さんでも俳句お作りになるんじゃありませんか。あんなのもやはり未来の美しさなのかしら。」
「さア、どういうものか今度よく訊きましょう。」
矢代は東野の後姿を眺めて云った。後ろでは二人の論争はまだ激しくつづいていた。
グランド・オペラは二十一時に始まる。千鶴子は真紀子に電話をかけ、無骨な矢代のことだからまごまごすると困るというので、自分に代ってオペラの案内を頼むと申し込んだ。ヴェルディの椿姫のこととて真紀子も喜んで千鶴子の頼みを承諾した。千鶴子の方へは勿論ピエールが迎いに来るから矢代たちと一緒に行くわけにもいかず、二人はそのまま別れて矢代だけ切符を買いにひとり出かけた。
本屋で買って来た椿姫を拾い読みしてから、夕食後矢代は初めてタキシイドを着てみた。白い手袋、エナメルの靴と身を替えて鏡の前に立って見ると、少し照れ気味な映画のギャルソンのような自分の恰好に苦笑が泛んで来るのだった。今夜だけは本物のピエールというアルマンと競争しなければならぬだけに、気骨の折れること一通りではないと思い、少し歩くと一度も練習したことのない舞台を踏むような気重さである。そこへ真紀子が階上から降りて来た。白地の縮緬のところどころに葉を割った紫陽花の模様のソアレを着た真紀子は、見違えるほどのしなやかな美しさだった。
「御用意できて、あら。」
と真紀子は云うと頬笑みながら、背の高いどことなく苦味を帯んだ矢代の姿を上から下まで見下した。
「どうです。このアルマン。」矢代は顔を赧らめて訊ねた。
「堂堂としててよ。あなただとは思えないわ。まア。失礼。」
「これで歩くと猿になるんだから、今夜は一つじっと立って、胡魔化してやりましょうかな。腹芸をやるんだ。」
真紀子はふッと笑いを殺してから矢代と並んで鏡に映ると、
「あたし、香水のいいのを買い忘れたの。シャネルよりないの。」
と云いつつ矢代により添い、片腕を一寸彼の腕にさしてみた。
「今夜一晩はこうして歩くんですからね。そんなに嫌がらないで下さいよ。ああ、面白い、久し振りにいい気持ちよ。あなた一寸。」
とさも面白くて溜らぬと云う風に真紀子は腰を折って笑い転げ、椅子に腰を降ろしてはまた鏡を見た。
「いよいよ役者か。ひどい目に会わされたもんだ。困ったなア。」
矢代は寝台の端に腰かけ真紀子のソアレを眺めながら、人生の中ではこんな芝居そっくりの場合にもたまには出会すものだと思い、いったいこれは何んという芝居に似ているものかと考えた。しかし、自分の出場はまだこれからで何のプログラムもないばかりか、椿姫のようなオペラを見れば見る者尽く自分も何らかの意味でアルマンだと思い、またマルグリットだと思うにちがいないので、あながち自分の今夜の出場も自分ひとりの芝居ではないと気が附いた。
「本当の椿姫の生きていたのは千八百四十二年というから天保十三年あたりだな。それもここのオペラ・コミック座の桟敷でアルマンが初めて椿姫を見染めて、嘲笑されたのが事の起りだから、今夜はまア実地踏査みたいなものだ。」
「あたし、前に一度読んだことがあるんだけれど、もう忘れてしまったわ。」
と真紀子は云って腕の時計を眺めてから、
「でも、千鶴子さんも物好きね。何も他の方と御一緒のところをあなたに見せたいって、どうしてでしょう。椿姫の気持ちを味いたいのかしら。」
「そうじゃない。あの人は初め断ったところが、それは礼儀でそうも出来かねたんだと思う。それに相手がフランス人だからどんな具合いに誘惑するとも限らないと思って、誰か知人に見ていて貰って安心したいんですよ。」
「そうかしら。でも、おかしいわね。」
と真紀子は薄笑いを泛べ机の上の椿姫を手にとってぺらぺらと頁を繰りながら、
「あの方、やはり矢代さんを愛してらっしゃるのね。そうよ。」
と小声で云って、ある頁のひと所にじっと視線を停めていた。
矢代は「いや、違う。」と云うことが出来なかった。彼は真紀子の視線を停めている頁はどのあたりであろうかと、彼女の来る前に探したある部分の言葉を思い出した。そこは血を吐いたマルグリットが寝室へひとり下って咳き込んでいる所へ、隣室から後を追って来たアルマンが初めて愛を打ち明ける場面で、マルグリットが優しくアルマンの熱した態度を抑える言葉である。
「そんなことを仰言るもんじゃないわ。もしそんなこと仰言れば、結果は二つよりないんですもの。」
「それはどんなことです。」
とアルマンが訊くと、
「もしあたしがあなたのお心のままにならなかったら、あなたはきっとあたしをお怨みになるわ。またあたしがもしあなたの仰言るままになったとしたら、あなたは、それは厄介な惨めな恋人をお持ちになることになってよ。」
というところである。矢代はこのマルグリットと同じ言葉をいつも千鶴子に向い、胸の中でひそかに云っていたのを思うのであった。もしここがパリでなくて東京だったなら、
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