無数に詰め谷間を下へ流れていた。二人は用意の靴下を靴の辷らぬ用心に靴の上から履き込み、手袋をはめて氷河の斜面を登り始めた。
一つ二つの尾根は矢代が先に立って、靴の踵で氷を傷つけつつ、後の千鶴子の登る足場を造る役目になった。しかし、三つ四つと渡り越すうちに、氷の峰と峰の間の断層が底知れぬ深さを潜めて増して来た。一つ辷って足を踏み脱せばどこまで落ちるか分らぬ断層が、ガラスの断面のようなびいどろ色の口を開け、降りて来る二人の足を待っていた。もう草もなく、いつの間にか二人の周囲はまったく氷ばかりの歯となって来ると、矢代は斜面の急な部分を迂廻する心掛けで、現れて来る不規則な氷の群峰を選び進まねばならなかったが、間断なく同じ動作をつづけるこの氷の歯渡りは、石工のような忍耐が必要だと悟って急がぬ用心をするのだった。
「上から見たときは狭かったようだけど、這入って見ると、ほんとに氷河って大きいものね。」
千鶴子はピッケルを打ちつけつつ、上から垂らす矢代のバンドを握って云った。
「冷いかと思ったが、そうでもないなア。これ、こんなに汗ですよ。」
「あたしもよ。写真をそのうちどっかで撮りましようね。」
引き上げられながら登って来る千鶴子を見ながらも、矢代はもう少し自分に力があればと、今は隠せぬ努力の不足に羞恥を感じて歎いた。それも労力だけではなく、智力も同様に貧しい自分について、彼女を引き上げる度びに感じるその操作は、二重の心苦しい瞬間となってときどき矢代の胸を打って来た。これでもし千鶴子と結婚するような機会を持てば――と、ふとそう思う聯想につれても、氷河は自分には天罰を与えた苦手だと彼は苦笑するのだった。
千鶴子の顔は赤味を帯んで熱して来た。額の生え際に細かい汗をにじませ、股のふくらみを折り曲げつつ、氷の面へせり登って来る千鶴子と見合う視線の閃めきも、冴え返っている白光の中ではただ一点の光りに見えるばかりである。
鈍い氷の斜面が現れると、二人は腰を氷に附けたままずるずる辷り降りた。鋭い氷山はときどき中央に空洞を開けていて、その穴から向うを辷る千鶴子の姿がよく見えた。尾根の描く氷の歯の先端は、日光のために鈍く溶け崩れていたが、それでも半透明のまま、それぞれの姿態の鋭さで天に向って立っていた。
「一寸矢代さん動かないで。」
千鶴子は峰に跨がるような姿で矢代にカメラを向けた。断層を飛び渡った矢代は瑠璃色の割れ目の底を覗き込みながらじっとしていた。
「はい有難う。この次、洞があったら、そこからこちらを覗いて下さらない。そこも一つ撮りたいの。」
細かい砂を少し含んでうす汚れている氷の面は、足場を造る度びに、新しい輝きを壊れた断面から現した。臙脂《えんじ》色の千鶴子の姿が尾根の上に全貌を現したときは、来た峰の上に折れまがった長いその影を取り包んで、七色の彩光が氷の面面に放射していた。
「お疲れになったら、あたしが先に行きましてよ。そう仰言って。」
と千鶴子は矢代の疲労の色を見てとって云った。
「少少疲れましたね。あなたは山登りはお上手ですか。」
「幾らかだけど、でも矢代さんよりはお上手らしいわ。」
「何んでも僕の方が少しずつ負けなんですね。これや日本人の特性かな。」
と矢代は云って腰を叩きながら笑った。千鶴子はちらりと微笑をもらしたかと思うと両肱を後ろにつき、曲げた膝にカメラを受けとめ、同じ微笑を崩さずさっと氷の斜面を辷り下った。下にいた矢代は受けたそうな手つきであったが、ねっとり汗ばんだ掌をズボンで拭き拭きまた断層を飛び越えた。
「ここのことかしら、あたし、何んかで読んだ覚えがあるんだけれど、この氷河の断層へ新婚のお婿さんが落ち込んだんだそうですのよ。そうしたところが、死体がいつまでたっても分らないから、花嫁さんは山の麓へ降りていって、氷河の溶けるまで永久に待っていて死んじまったって、あのお話御存知でしよう。」
「そう云えば思い出しましたね。多分その話はここのことかもしれないな。」
「あたしここだと思うの。ここはそういう人の来るところですものね。」
千鶴子はそう云いながら、ピッケルで欠いた氷の破片を、断層の底へ投げ込んで覗いてみた。破片はすぐ見えなくなったが、屈曲する断面にあたる氷の音が、「ころん、ころん、」と軽やかなわびしい音をたてつづけ、だんだん小さくなりつつ消えていった。
「まアいい音だわ。一寸お聞きになって御覧なさいよ。」
と千鶴子は矢代を呼んだ。二人は擦りよるように身を蹲め、破片を投げ込んでは断層に耳を近づけた。まったくそれは果てしれぬ氷河の底へ落ち込む虚無の音であった。音が消えてもまだ鳴りつづける幻聴となって、半音を響かせる絃の音に似ていた。矢代は空を仰いだ。日が照り輝いているのに、松柏を渡る風のような虚しさがじっと浮雲を支えていた。
「どっかでサンドウィッチ食べましょうか。お腹が空いて来たわ。」
延び上って来る千鶴子の肉声が耳もとですると、矢代は腰の手巾の包みを開けて出した。
「こんなところでいやしんぼうすると、断層の中へ落ち込みますよ。」
「じゃ、あなたも召し上れ。」
手を延ばしてサンドウィッチを取る千鶴子の頬笑みから矢代は目を反らした。心にこれだけは云ってはならぬぞと、云いきかせた二人の慎しみの裂け口を飛び越す思いであった。
「僕は監督だからな。」
軽く笑いながら自分も食べる矢代を見て、
「おやおや。」
と云いつつ千鶴子は今度は自分が先に立ち、氷の牙を登っていった。矢代はカメラを千鶴子から受けとった。
氷の尾根の線に添いおぼろな虹が立っていた。その中をまた二人は登り降りしつづけた。汗が全身に廻って来ると、矢代は、もう身を取り包んでいる周囲が尽く氷河だとは思えなくなって来た。物云うのもだんだん億劫になって来て、足もとに開いた断層も何んの危険な深みとも感じなくなるのだった。
「お疲れになって?」
千鶴子は氷河の三分の二ほどのところで氷の歯の上に跨がり、矢代を見降ろして訊ねた。矢代は彼女の垂らすバンドに掴まり、「何あに、大丈夫。」と云いつつ登ったが、あたりに漲る強い白光に眉のあたりが痛んで来た。
「そう早く登られちゃ嫉妬を感じるね。」
冗談にまぎらせてそう呟くものの、事実矢代は氷河の尾根を軽軽と乗り越す千鶴子に疲労の様子の少しもないのを見ては、振り向く度びに胸に光る彼女のブローチの金具が腹立たしかった。
「駄目ね、あなたは。」
これも冗談とはいえ、彼の体力の不足に刻印を打つように矢代には強く感じられた。ときどき一寸ほどの幅の割れ目が稲妻形に氷の面を走っていた。その割れ目にピッケルをひっかけ、遅れつつ呼吸を途切らせてようやく千鶴子に追いついた矢代は、何んとなく今は彼女に負ける楽しみの方が勝ちまさって来るのだった。
「一寸、千鶴子さん、撮りますよ。」
矢代は豊かな気持ちのままカメラを千鶴子に向けて云った。千鶴子に用意を与えず峰から振り向いた途端、そこをもう矢代はシャッタを切った。負けた良人が勝ち誇った妻の写真を撮るような快感さえ感じ、矢代はひとり快心の微笑を洩らしながら、
「もう撮りましたよ。どうぞ。」
と云った。千鶴子は体をねじ向け、「あら、」と不平そうな媚態で氷の矛の上から彼を睨んだ。矢代は上まで登って千鶴子と並んで立った。
「さア、もうこれ一つ渡ればいいのよ。」
「何んとなく楽しかったなア。」
矢代は越して来た危険に満ちた多難な峰峰を振り返った。並んだ二人の影が西日に長く氷の上に倒れて、そこから七色の放射線が前より一段強く空に跳ね返っていた。
「これで終りですから、並んで一緒に辷りましょうよ。」
そう云う千鶴子の晴やかな提案のまま二人は最後の氷河の尾根に並ぶと手をとり合った。そして、一、二、三のかけ声もろとも氷の斜面を辷り下った。
「とうとう征服してやった。」
と矢代は汗を手巾で拭き拭き笑った。
「ほんと、もうここならこれでスイスよ。」
二人は靴の上から履いた靴下を脱ぎ手袋をとって小舎を探しにまた路にかかった。山頂より少し下った所に丸木を組んだ小舎が見えた。千鶴子は先に立ってドアを開けた。
小舎の中には頭と腰とを交互に並べた牛が部屋いっぱいに満ちていた。その中央を僅かに通れる幅の通路があり、そこを進んだ正面のとりつきにまた一つドアがあった。千鶴子のノックで開いたドアの中から、客間らしい椅子テーブルの明るい部屋が現れた。中でひとり編物をしていた様子の老婆が出て来たので、千鶴子はフランス語で今夜の宿を頼んでみた。客の少ない季節のこととて二人は容易に部屋をとることが出来た。千鶴子はまた羊の帰る谷間はどこかと訊ねてみると、老婆は窓からゆるやかに見える下の山峡を指差して、
「もうすぐここの谷間へ羊が集って来ますよ。」
と教えてから古風な柱時計を振り返った。
「もうすぐもうすぐ。早く外へ出て行ってごらんなさい。」
手真似を混ぜてせくように云う老婆の言葉に随い、二人はテーブルの上に持物を置いて外へ出ていった。
もうその日の宿をとったからは二人は安心だった。一本の樹木もない峡間に拡がった牧場の見える路へ出て、そこで食べ残りのサンドウィッチを食べ始めた。
「今日は良いお天気だったから、きっとお星さんが降るようよ。ほんとに来て良いことをしましたわ。何んてあたしは幸福なんでしょう。胸がどきどきして来てよ。」
千鶴子は髪をかき上げながら周囲の山山を見廻した。矢代は黙ったまま、サフランの花の中で寝てみたり起きてみたりした。氷河は左方の斜面にねじ曲ったおおどかな流れの胴を見せていた。矢代は幾らか疲れが出て来た。手枕のまま頬に冷たく触れて来るサフランの花の匂いを嗅いでいると、温度が急に下り始めたらしく首筋がぞくぞくとして来た。
「まだかな、羊。」
こう云って彼は花をむしり取っては弁を唇で一つずつ放していった。
「もうすぐでしょう。きっと来てよ。」
千鶴子も待ちくたびれたものか矢代に添って一寸仰向きになりかかったが、直ぐまた起き直った。
「ここから見ると、やはり日本は世界の果てだな。」
と矢代はふと歎息をもらして云った。
「そうね、一番果てのようだわ。」
「あの果ての小さな所で音無しくじっと坐らせられて、西を向いてよと云われれば、いつまでも西を向いてるのだ。もし一寸でも東は東と考えようものなら、理想という小姑から鞭で突つき廻されるんだからなア。へんなものだ。」
千鶴子はどうして矢代が突然そのようなことを云い出したか分らないらしく黙っていた。矢代は起き上って来て暫く峡間の向うの方を眺めていたが、手に潰したサフランの弁をぱっと下へ投げ捨てた。
夕日が前から雲間に光線を投げていた。およそ羊のことをもう二人が忘れてしまっているころ、遠くの方から蛙の鳴くような声が聞えて来た。それがだんだん続くと蛙ではなく、牧場のどこかで羊を呼ぶチロルの唄だと分って来た。
「ああ、あれだわ。」
と千鶴子は云って矢代の腕を引いた。チロルの唄は咽喉の擦り枯れたような哀音を湛え、「ころころころ、」と同じリズムで聞えていたが、そのうちに、「るくるくるく、」と次第に高く明瞭になって来た。牧人らしく雲と氷に磨かれた声である。
唄につれてあちこちから鈴の大群の移動し始める音が起って来た。すると、四方から蝟集して来る羊の群れが谷間に徐徐に現れた。初めは入り交る白雲のように見えた羊の群れも、幾千疋となくどよめき合して来るに随って、堤を断った大河のように見る見るうち峡間いっぱいに押し詰り、下へ下へと流れて来た。
矢代は胸の下が冷えて空虚になるのを感じた。日没の光りに山山の頂きはほの明るく照りわたっていた。その下を羊の鈴の音が交響しながら、それが谷谷に木魂して戻って来る倍の響きとなり、総立ち上る蚊の大群のように空中に渦巻いた。チロルの唄はその中を貫く一本の主旋律となって、羊の群れを高く低く呼び集めて近づくのだった。
「るくるくるくるく、るるるるるる――るくるくるくるく、るるるるるる――」
「まるで神さまを見ているようだわ。」
と
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