千鶴子とは別れてしまい一生再び彼女とは逢わない決心だった。もしこれ以上逢うようなら、心の均衡はなくなって、日本へ帰ってまでも彼女に狂奔して行く見苦しさを続ける上に、金銭の不足な自分の勉学が千鶴子を養いつづける労苦に打ち負かされてしまうのは、火を見るよりも明らかなことであった。
矢代は千鶴子のホテルの方へ彼女を送って行きながら、こうして愛する証左の言葉を一口も云わずにすませたのも、これも異国の旅の賜物だと思った。建物の上層ほのかに射している日光を仰ぐと穏かな浮雲が流れていた。雨に流され鋪道の石の間に溜りつつ乾いた綿のような軽い花の群れが、自動車の通る度びに舞い上り、車輪に吸い込まれて渦巻きながら追っていった。
パリを出発してから矢代は南ドイツに入り小都会や地方を廻ってチロルの方へ出て来た。
オーストリアと、ドイツ、イタリア、スイスに跨った山岳地方一帯の地名をチロルと呼ぶが、矢代は東京を出て以来、日本人から全く放れて一人になったのはこの旅行が初めであった。このあたりは矢代の知っている言葉はほとんど通用しなかった。日本人の顔とては一人もなく、言葉も全く通じないということは、ときにはこれほども気楽で楽しいものかと思ったほど、矢代は真に孤独の味いを飲み尽した。ああ、こんな楽しいことが世の中にあったのか。と、彼は汽車の窓から外を見る度びに、心が笛を吹くように澄み透るのを感じた。身体も絶えず真水で洗われているようであった。ときどき湖水が森の中から現れたり消えたりしたが、地図など拡げてみようともしなかった。
矢代は千鶴子のことを思い出すこともあったが、今は彼女と別れて来たことを良いことをしたと思った。一人になってから車中や街中でふと肉感の強い女性を見ると、泥手で肌を撫で上げられたような不快さに襲われた。
南ドイツの国境近くになって来ると、牧場の花の中に直立している岩石の上から氷河の流れ下っている山脈が増して来た。全山貝殻の裏のような淡い七色の光りを放った絶壁が浮雲に中断され澄み渡った空の中に聳えている間を曲り曲って行くのだった。そして、オーストリアの国境あたりまで辿りついたときに初めて矢代は汽車から降ろされた。
乗り換えのない汽車だと聞かされてあったので、その村里の寒駅へ放り出されては、何事がひき起されたのか全く矢代には分らなかった。むかし習って忘れてしまったドイツ語で、ようやく次の列車を二時間半も待たねばならぬと知ったときには、むしろ、矢代はこれ幸いと思い、駅前の花野の中のベンチに腰を降ろした。
高原を通って眼にして来た山山の中、今矢代の仰いでいる寸前の山ほど彼を驚かしたものはまたとなかった。巨大なミルクの塊のようで一条の草もない。空よりも高く突き抜けているかと見える頂から、氷河を垂らしたその姿は、見れば見るほどこの世の物とは思えなかった。あまり見惚れていたものか首の後ろが疲れて来たが、彼は花を摘みつつ歩いては山をまたぼんやりと眺めてみた。
そのうちに疲れが全身に廻っていると見えて、眠くもないのに瞼がだんだん塞がって来た。彼は眼をこすりこすり幾度も山を仰いでいると、あたりがぼうと霞んで来た。これはいよいよやられたなと矢代は思った。日本を出発するとき衰弱の激しかった彼は、多分旅中死ぬかもしれぬと自分で思い、友人の二三の者から注意をされたのも思い起すと、やはりこの一人旅行は無事ではすむまいと覚悟した。しかし、今は矢代は楽しさに胸のふくるる思いであった。花野の中に一軒見えた茶店へ這入り、屋外の椅子にかけて牛乳を註文した。ビールを飲む大きなコップに搾りたての冷たい牛乳を、足をはだかり山を仰いで傾けていると、山も雲も氷河もともに冷たく咽喉へ辷り流れて来るのであった。
足のぎしぎし鳴る椅子に反り返り矢代は、周囲の高原を見廻してはまた牛乳を飲んだ。青青とした牧草が一面に花筒を揃え氷河の下まで這い連って消えている。後方の樹木の多い山の中腹にはホテルや別荘が建っていたが、人通りは花摘みに行った別荘の娘たちの日に焦げた姿が多かった。
「絵葉書が欲しいんだが。」
と矢代は茶店の主婦に云ってみた。主婦はしばらく顔色を見ていてから絵葉書を出して来たが、高山植物の葉書に混った中に二枚、角の生えた鹿の傍に卵の殻から生れて来る鹿の子の写真があった。ここの鹿は卵から生れるのであろうかと矢代はまたもびっくりした。景色までここは現世のものではないだけに、流石に生物も自から違うのであろうと思い、これで何よりの土産になったと、疲労も忘れて元気になったが、店を出て駅の方へ歩いて行くと、また眼がくらみそうに疲れを覚えた。眼前に突っ立っているミルクの巨塊のような山を見るまでは、疲れもさして覚えなかった筈だのに、この不思議な山を見て以来、のしかかられるような疲労に襲われるのは、これはいったいどうしたというのだろう。――
矢代は小首をかしげ道の中央に立ちはだかったまま、なお山を眺めつづけてやめなかった。すると、雲つくばかりのそのミルクの巨塊は静かに潜んだ雷電の巣のように見えて来て、見れば見るほど力が胸から吸いとられていくのだった。
「この山は見ると悪いのだな。」
と矢代は思った。彼は汽車の来るまで山の見えない待合室に隠れ、自分の荷物の傍へよりそっていたが、どうにもその不思議な山が気にかかり、ときどき屋根の下から出てみてこっそり山を仰いだ。すると、その度びに脊骨の中が暗鬱な痛みを覚え、周章《あわ》ててまた屋根の下へもぐり込んだ。
時間になって軽便のような汽車が著いた。矢代は汽車に乗るとまた幾らか気持ちを取り戻した。窓から石炭の粉がひどく這入って来たが、レールの周囲の高原は眼を奪うばかりの花で満ちて来た。彼は窓から首を出し、花の中を割るようにして曲ってゆく汽車を見ていると、ぼこぼこ煙を吐き出している苦しげな機関車が道化た老人じみて面白かった。牧草の花の向うに氷河を流したスイスの山山が連って現れた。羊の群れが山峡の草の中を地を這う煙のようにぼッと霞んで見えたと思うまに、また花に満ちた高原が両側につづいた。
こんな綺麗なところなら今夜ホテルへ著いてから千鶴子へ約束の電報を打っても良いと矢代は思った。パリを出発するときチロルへ著く日と宿とを報らせておいたから、あるいは久慈だけでも今ごろ先に宿に著いているかも知れぬと思われたが、それでもまだ当分彼は久慈に逢いたいと思わなかった。
パリにいるときさまざまな議論をしたことなど考えると、久慈への懐しさは日に倍して来て、彼はもう永らく一言も饒舌らぬ日本語をぶつぶつと久慈に向ってひとり呟くほどだったが、まだ言葉の分らぬこの一人旅行の楽しさは、今も何物にも換え難かった。
「こんな所へ来ないなんて、馬鹿だな君は、何んて馬鹿だ。」
矢代は声に出してこんなに云ったりした。そして、窓枠に顎をつけ、山脈を蔽った氷河を見ていると、世界の空気が自分一人に尽く与えられたように感じられ、涙が溢れて来て幾度も眼を拭いた。何というか、それは生れて以来の時間の重みが一時に解き放され、羽搏き上った放楽のような夢に似ていた。
彼は窓から乗り出すようにして繰り現れる景色の一点も見逃すまいとした。色とりどりの花の波が高く低くうねりながら古城を巻き包んでいる。少女がその高原の中を真直ぐに自転車のペダルを踏んでいく。霧が谷間から湧き上って来る。
「いや、来て良かった。もう何ものも要らん。」
深く頷く矢代の眼の前で機関車は、高原の風景はまだまだこれからだと云わぬばかりに無限に頁を繰り拡げていくのだった。こうして、日の暮れかかる前にようやくチロルのインスブルックへ著いたときは、矢代はがっかりと疲れてしまった。
クックであらかじめとって貰って置いたホテル・カイザは駅からすぐだった。彼は久慈から手紙でも来ていないかと思い訊ねてみるとそれはまだだったが、出された宿帳へ名を書き入れてふと自分の名の上の署名を見ると、千鶴子の名が見覚えの筆跡で書いてあった。
疲れとともにようやく人恋しさの加わっているときだったので、矢代はあたりの室内が急に体温に温められた明るさで満ちて来た。案内されて登る未知の階段ももう自分のもののような手触りを感じ、せかせかと馳け登りたい親しさだった。定められた部屋で旅装を解いてから、矢代はすぐ千鶴子の部屋を訊ねてドアを叩いてみた。
「あんとれ。」
と中から声があり矢代はドアを開けた。
「あら。」手紙を書いていた千鶴子は、振り向くと同時に急に安心したようにペンを投げ出して立って来た。
「あたし、ひやひやしてましたのよ、今朝著いたんだけど、もしかして矢代さん、いらっしゃらなければどうしょうかと思ってたところなの。」
矢代は一瞬菊の香りに似た風が千鶴子の身体から吹き込んで来るように思われた。
「まア、青いお顔よ、お疲れになったの。」
心配そうに云う千鶴子の前に立ったまま、矢代は、
「よく分りましたですね。」
と云ってしっかり握手をした。全く彼は夢想もしなかった喜びに、煌煌と火の這入った満された思いでしばらく茫然として部屋の中を眺めていた。
「日本語を使うのは今日初めてですよ。何んだか変だな。」
「でも、御無事で良かったわ。」
「無事は無事ですが、夢を見てるみたいだ。僕は今来る途中で、とてつもない山を見ましてね、入道雲のような山なんですが、山全体が磁石で出来てるようなもので、そ奴を見ると、疲れてへとへとになるんですよ。」
云うことがどうも頓珍漢になりそうなほど突然の気楽さのためか、事実二人がここにいるということだけで話などはもうどうでも良いのだった。
「まア、どんな山?」
と千鶴子もこう訊き返したものの深く訊きたい様子はさらになかった。矢代は痛んで来た肩を操みつつ、
「さア、絵葉書にはミッテンワルドと書いてあるんだが、口の中で繰り返して云ってると、見ると悪いぞという意味になって来て、驚いて逃げて来たところなんです。」
二人は笑いながら長椅子にかけて向い合った。
「でも、この街もあたし、不思議なところだと思いましたわ。」
「そうだ、ここも恐ろしいところだな。何しろ、見ると悪いぞのつづきだから。」
窓から見える所だけでも、犀の肌のような樹のない石の高山の頂から、街の上まで氷河が流れ降りていた。三方から垂れ流れたその氷河の狭い底辺に、森閑として建っている大都会がこの街であった。一条の塵も落さぬ清潔さでサフランの花の満ちた牧場に包まれたこの街は、最上の彫刻を見ているような深く冷たい襞を貯えて静まっていた。
「もう夕暮だからいいけれども、お昼にあの山を見ていると恐くなって慄えて来るようよ。あたし、こんな所に一人でなら一日もいられないわ。」
矢代は山を見ていると、永久に腐らぬ悲しみというようなものが満ちて来て、久し振り千鶴子に逢った感動も岩の冷たさに吸いとられていくのを感じた。それは冷厳無比な智力に肌をひっ附けているような、抵抗し難い命数に刻刻迫られる思いに似ていた。
「これはミッテンワルドより一層たまらないな。しかし、明日は一つ、あの山の上へ登ってやろう。」
矢代はこう云って山に背を向けてから久慈や東野のその後の動静を訊ねるのだった。
入浴して後二人は夕食をとり、旅の話をしているときから雨が降って来た。夜の散歩も雨のやむのを待ってからにしようと云って、二人は矢代の部屋でまた話をしていると、雨は夕立となり篠つくばかりの激しさになって来た。
矢代は疲れて千鶴子と別れその夜は早く眠ることにしたが、雨の音の激しさに灯を消しても寝つかれなかった。彼はまた起きると、カーテンを上げ、窓に肱をついて山の方を仰いでみた。氷河を貫くように斜に降る強い雨足が、建物に衝り爆け、石の壁を伝って流れ落ちると、道路の上で音立てて崩れていった。
昼間の日光に温まった山山の岩も冷えて来たのであろう。急に冷くなった空気に矢代の身体は縮まったが、人一人も見えぬ彫りの深い夜の街に雨の降り込む美しさは、鬼気身に沁み込む凄絶な趣きだった。
矢代は、暫くしてノックの音が
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