あれほど親しかったものたちも、「別れてしまえば、」と思うと、誰もうとましくなるものであった。船中は楽しかったとはいえ団体生活であるから、思えば誰にも自由がなかった。不快なことがあっても忍耐をしていなければならぬ。殊に同じ一等の船客ばかりであってみれば、日ごろ日本にいるときの地位や名誉や財産などは、何の権威にもならなかった。階級差別の何もなくなってしまっているこのような所では、ただ人の性格と年齢だけが他人に働きかけるだけである。
船客たちが団体で港港に上陸したときの金銭の貸借も、今日は整理をするのだが、誰が誰に貸しがあり誰が誰に借りがあるかは、も早や混雑して分らなくなっている上に、僅の金を返せ返せと云って廻る面倒も若者たちはしたくなかった。それを知った沖氏は自分からその面倒な整理を申し出た。
「僕は日ごろ他人を使ってばかりいて、使われたことがないから、こんなときでも一つ使われてみましよう。」
こう云って沖氏は人人の間を皿を持って廻り、他人の複雑な貸借をいちいち整理して歩いた。船の中では老人は威張れないが、この沖氏は諧謔と滑稽さとでやすやす若者たちを統御して最後の務めもし終えたのである
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