がすすめた。真紀子は初めの間は躊躇していたが、沖氏に立って来られると、
「じゃ、やりますわ。」
と逃げるようにピアノの傍へよっていった。船客たちは長い航海中、誰も真紀子のピアノを聴いたものがなかったからこの意外な余興に拍手をあげて喜んだ。
「何をやるんです。」
傍へよって訊ねる沖氏に真紀子は小声で短く何ごとか囁いた。
「ははア。」と沖氏は云って満足そうに一同の方に向き、「え―皆さん、これからわれらの真紀子夫人はドナウの流れという曲を弾かれますから御清聴を願います。これはウィーンにいられる御主人のことを忍ばれた曲でありまして、いささか皆さまにとりましてはお聞き苦しいかと存ぜられますが。――」
ここまで沖氏が云うと床の緋の絨毯を靴で打つものや奇声を発するものがあったが、すぐピアノは鳴り出した。背中の少し開いた真紀子のソアレの割れ目から緩急に随い、人より白い皮膚が自由な波のように揺れ動くと、三島は「ほおう。」と剽軽《ひょうきん》な歎息をもらしたのでまたどっと皆は笑いを立てるのだった。余興のこととて曲は手軽に辷って終ったとき、拍手の中を沖氏がまた立ち上った。
「皆さん、今の御演奏はまことに
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