もせずに、そのまま西と東に別れて帰ったのを、久慈は面白い皮肉を云っていたよ。あの二人の馬鹿は、今ごろ地球を二人で締めつけているようなものだが、お蔭で俺まで苦しいと云ったね。」
「あの概念、何に知って。」と矢代も思わず云って苦笑を洩した。
「しかし、まア、誰でもやれることをやって苦しむよりも、やれないことをやって苦しむ方が、意義があるさ。」
 東野の低く沈んだ声に変ってそういうのを、このときは矢代も、自分のこととしてより東野自身のことを呟いたように受け取れた。そして、東野が立って部屋の外へ出ていっても、その後に残った彼の呟きの意味だけが尾を曳いて残り、そこに真紀子の姿の潜むのも感じられてからは、千鶴子とすぐには語れぬものもあって、この山房の午後の空気も暫時霽れ間を見せて来なかった。
 矢代は棚から活眼のある古硯を降ろして眺めた。端正な重みの石の冷たさが掌へ滲み停って来る底に、まだ落ちつかず紊れるものの陰影を感じ、彼はそれも背後にいる千鶴子の体への騒ぎだと気附くと、微塵のように光る硯面に点けた指紋の曇りの晴れて来るのを待ち眺めるのだった。そうして暫らく彼は動かずじっとしているうち、硯の放つ光沢の中からパリのオーグスト・コント通りの街区が泛んで来た。あの通り全体ちょうどこんなだったと思うと、千鶴子とパリで別れた最後の夜、雨の降る中をそこまで来て、ベンチへ倒れ込むように腰かけたときのことが思い出され、それも今はこうしてそのときの苦しげな姿を手にとり眺めている自分だと思った。硯から手を放し、彼は後にいる千鶴子を見た。手摺によせかけた体を曲げ、庭の芒を眺めている千鶴子のなまめかしい矢絣の紫が、今日は重い帯をつけ打てば鳴り出しそうに休んでいる。
「眉子山房も真紀子さんの弟子だと容易じゃないなア。」と矢代は云った。
「今日いらっしゃるかもしれないわ。今お電話のようでしたから。」
「しかし、それはいいとしても、あの二人の前で久慈のことを話していいかどうか、そこが難かしい。」
「でも、そんなこと――さきほどだって、東野さんから久慈さんのこと仰言ったんですもの、いいと思うわ。」と千鶴子は矢代を見上げた。
「それにしてもさ、真紀子さんの方は、そうでもなかろうからね。」
 もうなんの係りもないとはいえ、矢代はこう云うときでも、まだ千鶴子を知らぬ以前の、久慈と千鶴子の交渉の睦じさが眼から取り去ることが出来なかった。それも千鶴子の場合はともかくとして、真紀子と久慈との場合は結婚同様の二人の生活だった。今久慈を除いた後の四人が他人を混えず会うということは、矢代のみならず、それぞれにとっても未経験のことであった。各自の紊れ散る思いの面に浮ぶことは、移り変る旅の日の山川草木の姿といっても、揉み刺して来るものは人の姿にちがいなかった。しかし、振り返って見ても、よく千鶴子と自分はここまで来たものだと彼は思った。そして、久慈が二人のことを、「あの二人の馬鹿が、西と東に別れ地球を締めつけているようなものだ」といった戯れも、そう云われてみれば、二人の情念の伸び巻いて断ち切りがたかった当時の烈しい様も思い出され、二疋の蛇のような異様な姿として描かれて来るのだった。それも今はここで草叢を覗く二人であろうとは――そう思うと矢代は、自分の尾のどこかにまだ抜かぬ一本の剣が潜んでいるのも感じて来るのだった。しかしその剣はいつか一度は必ず噴き放って、焔の中を貫きぬけることもあるだろう。もしそれが宝剣だったら、天上へ届く鉄塔とならぬものとも限らない。――矢代は自分のこのような念願や空想は、世の中の男の誰もが不断に願ってやまぬ思想だったと思った。もしそれがなければ、身を灼く男の情念とは、何ものでもない腐肉の如きものだと思われるのであった。
「おろちだ俺は。」
 彼はそう思いながら草叢から眼を空に上げた。東野が抹茶を持って出て来たとき、高樹町の実家に帰っている真紀子が間もなく来ることを云って、今夜はみな揃って夕飯を共にしたいから時間があるかと訊ねた。
 矢代は礼を述べてから、さきに話に出た五十鈴川のお水を見せて貰いたいと頼んでみた。
「五十鈴川のは水質が最上だね。愛硯家はあの川裾の方の大寒中の水を汲んで硯にするのが例だが、僕のは菌のわかないようにカンフル注射をしてあるのだ。そうすると墨色もなかなか良い。」
 と云って、東野は棚から袱紗に包んだ古万古の壺を出した。矢代は抹茶を飲み終ってから卵形の壺を捧げるようにし、そして少し揺ってみると、たぶたぶとした水量の重みに脇下に爽やかな胴慄いを感じて頭を下げた。
「これもどうやら地球に見えて来た。」とひとり喜んで云っては、彼はまた子供のように水音を聞くのだった。
 なお東野は、硯水の質より墨色や発墨の美しさに相違の生じることを述べて、旅先きで蒐集して来
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