嘆息も、あの主の変った廃館を見たかったためだったのかと、彼は自分に会話を教えた教師の胸に今も失われぬその夢の巣を、彼女に代ってなおよく覗いた。入日の変化につれて、海草の広大な層がそこだけ見る間に黒く変っていった。残光の漂った水面を掠め汽笛がまた鳴りつづけた。そして、時計の歌の消え入るような余韻を腹に沁み透らせ、港はしだいに灯を明るくしていった。
「矢代さんにお話したいこと、それはいろいろあるの。いつかまた、ゆっくり落ちついたときにね。」
 と真紀子は食卓につく前に、あきらめに似た悲しさを含んだ声で、矢代の傍へ来て云った。
「どうぞ、是非来て下さい。」矢代は真紀子の不幸な旅を慰めるつもりで短く云ったのだったが、しかし、自分はこのような屈託のないことも、帰って以来千鶴子にまだ一度も云ったことはなかったと思った。

 一同が食堂のテーブルについたころ外はまったく暗かった。そこへ藤沢帰りの久木男爵から東野に電話がかかって来て、すぐこれから行くから待っていて貰いたいということだった。食事も半ばまで進んだとき、平尾男爵は、隣りにいる田辺侯爵に、
「どうだね、このごろ君の郷里の方の忙しさは。」と訊ねた。
「相変らずだ。」と答える侯爵は表面閑そうな声だったが、地もと県民の種種雑多な集りの会長を引受けている関係上、その仕事の多忙さは、産業や教育、工業や政治関係など、華族仲間の交際以外のことだけでも容易なことではないと矢代には分った。一見、閑そうに見えているものでも、どこかに必ず人知れぬ多忙さがあるものだが、それは、このごろの矢代のみならず、ここに集っている誰彼皆がそうだった。殊に侯爵は県民の育児と教育事業に熱心で、図書館の蔵書目録を充実させることには、直接の力を惜しまない風だった。全国でも侯爵の県下の図書の豊かさは、一般に鳴り響いていることだったが、育児事業の完備と育英奨励も、これまたともに有名だった。
「僕は船の中で東野君にもいろいろ話したんだが。」と男爵は侯爵の方にナイフを持ったまま傾いて云った。「田辺のように図書館を豊富にしたり、育英、育児に熱心になったりするのは、これは勿論大いに推賞すべきことだと思うんだが、僕は自分の研究の社会学をすすめていってみてだね、どうも、自分の郷里の県下を健全な方向に発展させるためには、先ず何より市町村の祭りを大切にして、これを奨励すべきが根本だと思って帰って来たんだよ。農業とか、芸術とか、その他の生産関係など、殊に工業にまでこれを及ぼすべきだと考えるんだが、まア、僕の考えは君の現実派に比べて理想派だけれども、理想派必ずしも非現実主義ではないので、むしろ、君より僕の方が現実主義だとも自慢し得るんだがね。しかし、それはさて措き、農業経済というような点から考えたって、日本内地の手の込んだ集約主義の農業の成功というやつは、やはり、町村の祭りが根本だということは、これは誰も異存なく認めなければならんのだから、いろいろ云われる例の、外地の大農主義というものにしてもだね、僕は自然にこれからその中へ介入して来る科学にまで、祭りを忘れしめぬように発展さすべきだと、こんな風に考えてみるんだよ。つまり、科学祭りというものをだね。」
 何を云い出すかと思っていた一同は、思いがけない男爵の話から、答える術もなく、軽い一種の失望を泛べた表情でにやにやしながら黙っていた。すると、千鶴子だけ一人、何か急に思い出した様子で、首を上げ、傍の矢代を意味ありげに見詰めたが、由吉が突然、「殿さまにはなりたいものだね。」と云ったので、その拍子にどっと上った一団の笑声に邪魔されてまた彼女もそのまま黙った。矢代は千鶴子の視線が忘れられず、それから続いて聞える談笑の底から、彼女の方へ身をよせかけて、
「何んです。」と低く訊ねた。
「お昼に船を待ってたとき、お訊きしたいことあるって、あたし云ったでしょう。あのことなの。」
 千鶴子がこう云っているときでも、あたりのものらはそれぞれ別のことを話し始めたので、幸いに二人の話は皆に分らずに終りそうだった。千鶴子の訊ねたいということは、なるほど彼女の思い出したのももっともなことで、兄の槙三から頼まれて来た用事だが、越後の山の湯にいるとき、矢代が槙三に話した幣帛の切り方に関することだった。それは一枚の白紙を無限にずるずると切り下げて垂らしていく幣帛を、宇宙の形と信じた太古の日本人そのままに、今もなおその幣帛の上に鏡をいただくように安置し、祠の本体と信じている心の美しさについてであったが、数学者の槙三には、矢代の話の中そこが一番の興味の中心だったと見えて、学校に行ってからそれを先輩たちに話したらしかった。ところが、一枚の白紙を無限に連続して切り下げる方法は、目下世界の数学界に於ける最大問題である集合論のうち、特にヒルベルト
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