仏教は仏を信じさせても、先祖を仏だとちゃんと認めているんだからね。」
「しかし、神に帰一する希いはカソリックだって同じだよ。神に二つはないんだから、それを仏だなどという怪しいものを持ち出して来て人の頭を紊したから、紊された人間の頭の恢復は遅くなるに定まっているじゃないか。」
 塩野のそういうのに、口重な佐佐は少し云い渋ってもどもどしたが、人より頭の鉢の大きく開いた強い眉の下で、眼だけ鋭く反抗している微笑を泛べて云った。
「仏教というものは、カソリックみたいにそう人に苦しみを強いるものじゃないのだからな。」
「まア、どちらも日本の神を信じたまえ。」
 と、速水は風邪ぎみか度度手巾を出し鼻をかんだ。
「しかし、日本のむかしのキリシタン宗はカソリックだといっても、あれは実は武士道精神だったのですね。迫害にあって死ぬことを名誉と思って、ぞくぞくと平気で死んでいったものだから、ローマの法王庁はそれを聞いて、そんなことは当時の外国の例にはないことだし、向うにセンセイションを起したらしいんですが、しかし、僕は、ヘルンという人は外国人だったから、危機に臨んだ際の日本人のそういう無私、滅私の祈りというものも、やはり外国流に解していたのじゃないかと思うのです。日本人ならははアやったなで、すぐ分りますからね。」
 矢代は偶然のことから一同に問題を投げかけてしまった責任の始末もつけたくて、そう云いつつも、ふとまた別の一つの思いが泛んで来たのでさらに云い加えるのだった。
「マリヤ観音というのが当時の九州にありますが、あの観音像は幕府の眼を昏ますためのマリヤ像か、それとも、マリヤ像を仏教の一種の観音像と見たものか、そこはどちらにしたところで、日本のカソリック信者自身、自分の宗旨の何ものであるのかよく知らなかったということになりますから、その直感をいっそのことも一つ前に遡ぼらせて、仏教渡来のときのことを想像しますと、あるいは観音像を天照大神像だと信じさせつつ、仏教徒が民衆の中へ入り込んだ時代もまた僕には考えられて来るんですよ。だいたい、信仰の根というものはみな一つにちがいないのですから、日本人の信仰ならどういう宗教であろうと、その中には大神からの古神道が流れていると思われるのです。僕はそんな風に思うと、やはりキリシタンの迫害の際にも、死を見ること帰するがごとく平然として死んでいった信徒たちも、武士道というよりむしろ古神道の精神の立派さじゃないかと思われるんですが、どうでしょうか。」
 云いかねていたことも矢代はそう云ってしまうと、この夜の査問に対する自分の答えも、これで先ず出来たとほッとした。またそれは思いがけなく千鶴子への答えにもなっていたので、反省すべき部分を残していると思われても、公衆の前では今のところこれ以上はやむを得ないと思った。
「あなたの道徳論も、それでまア、やっと分りましたな。」
 久木男爵は小首をかしげ眼鏡を脱した後で、客たちはみな遠方を見ている風な眼差のまま誰も黙り込んだ。しかし、遊部だけ一人何んとなく落ちつき悪そうに左右を見廻しているうち偶然にみち子と視線が会った。すると、急に照れた笑顔で、
「皆黙りこんでしまったなア。みっちゃん、その後丈夫かね。」とひょっこり訊ねた。
「ええ、お蔭さまで。あなたは?」と、みち子は意外に静かな声で懐しそうに肩を落し、そして伏眼でそっと遊部を見た。
「僕もまア、この通りですよ。」
「お痩せになったわね。」
「いったい、どっちも好きなくせに別れているとは、どういうことだ、え?」と突然由吉は二人の顔を見較べて訊ねた。
「誠実さがないからさ。」と遊部は軽く俯向いて一言いった。
「あってよ。」
 みち子も同様に軽く応酬したが、二人の搓りを前に戻そうとする風では少しもなかった。
「もっとやれやれ。」とまた由吉は面白そうに二人をあおり立てたので、論議とは違い室内は一層賑かな笑いに満ちて来た。
「どっちも誠実さが足りないぞ。」
 と塩野は、前から二人の間に挟まっていたあるもどかしさを吐き出したいらしく、彼もまた元気づいた声になった。
「とにかく、諸君に心配かけて相すまないが、どうもね――このマリヤ観音は、道徳というものを知らないのだよ。」
 遊部のそう云うのに由吉は隙を与えず、
「今ごろ道徳に負ける奴があるか。」と彼の顔を窺き込んだ。
「先日、あなたのあの人見てよ。」
 みち子はもう他のもののことなど見向きもせず、遊部だけそこにいるような和らかな眼で彼を見詰めた。
「見たか。どこで?」
「ある所よ。――でも、あなた本当にあの人好きなの。」
「いいね。誠実さがあるよ。」
「そうかしら。あたし、あんな人に感心するなんて、少しあなたどうかしてるんだと思ったわ。」
 と、みち子は顎を引き、遊部の胸のあたりに視線を落しながら、
前へ 次へ
全293ページ中207ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング