。」
 千鶴子は山の頂の方をほッと開いた軽い笑顔で見上げた。頂の雪だけ明るくオレンジ色に染め残した峡間に、ますます濃い薄暗が迫って来た。
 矢代はこちらから云い出そうかと思っていたことを、そんな自然な表現で千鶴子から切り出して来てくれたのは、何か母との間にいよいよ話せぬ溝の深まりが生じて来たためかと思った。それを彼に覗かせたくもない彼女の苦心の一方に、またいくらか、彼に知らせねば自分の躊躇の理由も伝わらぬ思案の末の工夫かと思うと、矢代も感動を覚えて千鶴子の見上げている同じ山頂を仰ぐのだった。
「しかし、あなたのお母さんの方は、そんなことで納得されるんですか。僕は暫く無理はされない方が良いかと思うんですがね。」
「ですからあたしもそれを考えてるんですの。お母さんは少しむずかしいものだから、何んだか分ってくれないところもあるんですのよ。」
 千鶴子は山の頂からすぐ真下の路上に眼を降ろして伏し眼になった。炭俵と蜜柑を積んだ手橇が一台人もなく雪路に停っていた。そこへ餡パンを啣えた宿の小さな子供が出て来て、手橇の柄を掴み、それを動かしてみようとしてうんうんと力み出した。
「お父さんの方はどうですか。」
 と矢代は下の子供を見降ろしながら千鶴子に訊ねた。
「父はいいんですの。だけど、こんなことは、お母さんの云うとおりになる人なの。」
「僕の方はいつまでだって待ちますよ。あなたのお母さんにお会いしてもかまわないんだが、もっとはっきり嫌われるだけだと分ってからの方が、勇気が出るかとも思うので、まアそれまでは、このままの方が無事でしようからね。」
「あなたのお母さんは。」
 千鶴子はそれが何より気がかりだという風に、急に欄干から頭を上げ眼を耀かせて訊ねた。
「僕んところの母は、僕が頼めば承諾は必ずしてくれると思うんです。しかし、あなたがカソリックだと分れば、それからが厄介なところがありそうですね。何しろ僕の母は法華なものだから、これは曲げようにも曲らない。しかし、ただ一つ見どころがあるので、そこを何んとかうまく僕はしてみるつもりです。」
 矢代はこの宗教の違いのことだけは口には出すまいと思っていたのだったが、云うべきときには云って置くのも、後の邪魔を取り去る何事かになりそうに感じ、つい母の法華のことも云ったのだった。すると、籐椅子のきしむ音を立て急にまた千鶴子は悲しげに欄干の方へよりかかって下を見た。
「しかし、僕は失望はしていないのですよ。一度こういうことがあったので、――一寸お聞きなさいよ。あなたにだってこれは重要なことだから。」
「何んだかあたし、悲しいわ。あなたのお母さんに叱られた夢を見たこと思い出すの。――」
 千鶴子は手巾を出し眼をそっと拭いた。
「しかし、そんなことなど、一度や二度は必ずあると思うべきでしょう。あなたがカソリックで母が法華なら、反りを合そうたって、合すことの出来た人がありましたかね。だから、やってみるのも面白いでしょう。」
「やれないわ、あたしに――」千鶴子は手巾の中で呟いた。
「勇気がないんだなア、カソリックのくせに、僕のことを考えてみてくれたまえ。僕はカソリックと法華に挟まれて、君どころの騒ぎじゃないんだから。」
 二人はまた黙り込むと下を見た。下の路で橇の柄を握り力んでいた子供は、執拗くそれを動かすことをやめようとしなかった。餡パンを啣え口を空に向け、ふんぞり返った顔を充血させていたが、橇は微動もしなかった。すると、子供は手を放して後ろへ廻り今度は後から橇をうんうん云って押してみた。明らかに荷の勝ちすぎているのが、上から見るとすぐ分ることだったが、下からでは動きそうに見えるのかもしれぬと矢代は思い、自然に自分の今のことも思い合せてなお下を見つづけるのだった。
 そのうち子供は餡パンを一口食べてからまた思い切れずに前に廻った。そして、橇の柄にぶら下ると今度は自棄になって足を柄にひっかけ、逆さにぶらぶらしながら唱歌を唄いだした。千鶴子も矢代も思わず一緒に上から笑った。
「ああでなくちゃ駄目だ。あの子はきっと出世をするな。」
 と矢代は云った。
「ほんとにね。あんなになればいいわ。」
 千鶴子も幾らか機嫌が直ったらしかった。
「僕らのも動かす方法をさえ考えれば良いのだが。」
「じゃ、あたしどうすればいいとお思いになって。」
 千鶴子は欄干から身を起し生真面目に訊ねた。
「まア、餡パンを食ってみたり、押してみたり、唱歌を唄ってみたりしているうちに、時間が来ればあの橇の主が出て来て曳いて行きますよ。人の運命と云うものは、そんなものじゃないのかな。」
「じゃ、あたしたちの橇の主は誰かしら。」
 千鶴子は一寸あどけない表情になりあたりを探す風に見廻していたが、それも困惑した思いに衝きあたったらしく、また苦しげな元の顔に戻っ
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