たことがあったが、内陣の壁画に野蛮人のひれ伏している頭上高く、誇りやかに十字架を輝かせた図の多いのに不快を感じ、よく調べもせずすぐ外へ出て来た記憶のあるのがそこだった。蛮人という生命の資本のごとき活力に知性の槍を突き刺してこれを殺したギリシアのかつての滅亡の因が、その寺院の中にも生い繁っていたのである。むすび(産霊)の零のない数学の藪のように――。
昼近くなって千鶴子と槙三が、まだ幹の湿った杉の坂路を明るい声で登って来た。よく霽れた空の下に拡がった雪の谷を見降ろし、矢代は小屋の窓から手を上げて二人を呼んだ。下からも答える声がした。矢代の調べ物もまだ知らずに雪路を登って来る空腹な二人の兄弟の弟子が、一人はカソリックで、一人は科学者であるのがまた今の矢代には面白かった。
「汗をかいちゃったわ。今日は暖くって、いいお天気ですこと。」
小屋の前まで来たとき、千鶴子は宿から借りた足駄の雪を踏段の角で払い落して云った。
雪が日に解け始めたと見え屋根から崩れ落ちた。部屋に兄弟の客を上げると矢代は茶を淹れた。千鶴子はまだ外套も脱がず珍らしそうに、暫くは裏口の窓へ行ったり、炊事場へ廻ったりしつづけた。矢代は嫁に自分の栖家を初めて見せるような、初初しい気持ちに満たされて彼女の後姿を眺めるのだった。
「どうです、この小屋お気に入りましたか。」
「簡単でいいわ。あなた、無慾になったなんてお手紙で御自慢仰言ったけど、ここならあたしだって、無慾になれましてよ。」
裏口の窓から筧の落す水を眺めていた千鶴子は、ただ二人の間に通じるある意味を含めた微笑で振り向いた。矢代はそういう千鶴子の微笑を初めて見たと思い、何か確実な彼女の心を掴んだ安心を得た思いで、椅子に対っている槙三の顔をまた眺めるのだった。しかし、槙三は、そんな事柄には一向興味の動かぬらしい穏やかな顔つきで、赧い下唇を突き出したまま、卓子の上に散っている矢代の書類を見ていた。矢代は千鶴子がよく気のつく上の兄の由吉を連れて来ずに、槙三を選んだ理由もよく分った。
「あなた風邪はひきませんでしたか。昨夜は少し冷えましたからね。」
朝の浴槽の中で小さく咳いた千鶴子の咳声を思い出し、矢代は槙三にそう訊ねた。
「いえ別に。」と槙三は云ってから、「宗教を研究してらっしゃるんですか。」と訊ね返して笑った。
「宗教というほどのことはないので。」
矢代は笑いながら答えてから、むしろ、宗教よりあなたの専門の科学の方で、とそう云いたくも思った。が、昨夜食事のさい危く二人のもつれかかった話題のことも考えられたので、またこのときも黙るのだった。何か一口いえば、火の発するものを無数に抱いている今の青年の間だと思うと、口口に云いたいことを圧え黙りつづける工夫も、これで並みたいていのことではないと矢代は思った。
「千鶴子さん、まアここへおかけなさい。御馳走は下のお婆さんに頼んだのが来れば、さしあげられますから。」
千鶴子は外套の袖から腕を抜いてストーブの傍へ来た。まだ部屋に籠っているバタ焼の鶏の臭いが千鶴子の動く身につれ掠め立った。
「由吉兄さん、そろそろまた外国行きの準備なんですけれど先日あなたに云われたの利いたものか、今度は奈良や京都をよく一度見直して行くんだと云ってますのよ。そのときあたしも一緒に行きたいと思うの。あなたもいかが?」
「それならいつでもお供します。」と矢代は云った。「しかし、由吉さん、疲れの休まる暇もありませんね。僕なんか、まだ疲れが癒ったとは思えないんだが、馴れてる人はそうでもないものかな。」
「何んですか、このごろは早く外国へ行きたいような素振りもあるんですのよ。あたしにも、一緒にまた行かないかなんて、云うんですの。」
由吉の冗談だとばかり、気軽く千鶴子も思って云ったつもりらしかったが、矢代にはそれがかなり強く響いて応えた。たとい由吉の冗談とはいえ、そんな空気も宇佐美一家の中に漂っていることは見逃しがたいことだった。それも他の男と結婚を迫られている現在の千鶴子の唯一の逃げ場も、再度の外国行き以外にないことを見抜いている、由吉の同情した誘いかとも、矢代には考えられた。また切羽つまれば、由吉の誘いも馬鹿にはならぬ、事実となりそうなものをも含んでいた。
「僕の知人で一人、日本へ帰ると一ヵ月東京にいたきり、すぐまたパリへ来てしまったのがいますがね。ところが、またそれとは反対のもいて、日本からパリへ着くと、次の日にもうパリがいやになって、半月目に日本へ戻ってしまったのもいますよ。人というものは、いろいろなものだなアこれで。」
矢代は千鶴子に、あなたは今はどちらの方かと訊ねるつもりだったのに、そういうことを云っては秘かな狼狽の色を蔽うのだった。
「どうしてですかね。そんなに違うの。」
と槙三は訝し
前へ
次へ
全293ページ中185ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング