換えてから千鶴子と槙三がすぐ湯に行った。矢代はひとり部屋に残って熱い茶を飲み、炬燵に膝も温まって来ると、これからひとり冷えた山小屋へ戻るのも億劫に感じ、どこか別に部屋の空いたのを頼んでみたくも思った。しかし、一緒のものがさばけた由吉ならともかく、汚れの見えない槙三が千鶴子の連れだと思うと、千鶴子と自分の外国流の親しさなど見せるのも気がねだった。やはり夕食だけ宿で摂りそれから山小屋へ帰ることに定め、彼はまた傍の脇息を抱き込んで二人の戻るのを待つのだった。
 それにしても千鶴子がここまで出て来ることの出来たのは少しは彼女の母も娘の意志を認めて来たのかもしれず、その相談もあってのことかとも解されたが、二人の間がのっぴきならなくなっているというよりも、も早や結婚する以外にどちらのコースもなくなっているのを矢代は感じた。それも男女の慎しみの限りを守りつづけ、その果てに実となった、われ知らぬ夢中での結婚だったとはいえ、すでに矢代は千鶴子の結婚も終えての今、初めて見るこの夜の親しさは、また格別前とは違って近親の情を覚えた。今となっては、たとい二人の間を妨げるものがあるとしても、やむにやまれず押し切って後悔せぬ張力に変るかも知れぬものだった。
 しかし、自分はまたそれをも喰いとめてしまうことだろう、と矢代は思った。もうそれは彼の慎しみでもなければ、羞しさでもなかった。それはどういうものか別に理由のないことで、強いて云えば、それは人にただ守られるだけの努力でやっと伝わってゆく儚ない礼儀のようなものかと思われた。矢代はこんなに自分の心を自由に用いることも、見ることもともに封じているのも、やはり何んとなく、昔から人人の担いで来た分らぬ重い御輿を自分も担いで見たかったからである。
 千鶴子は珍しく宿着を抜き襟ぎみに湯から上って来て、タオルをかけ、
「いいお湯でしたわ。お入りになりません。」
 と矢代に奨め鏡台の傍で化粧をした。
 艶のある爪が軽く頬の上で揺れるのを眺めながら、彼は千鶴子の和服姿を見るのも初めてだと思った。
「早く入ると僕は湯ざめのするたちでね。しかし、ここの湯は良いでしょう。殊に朝がいいんだが。」
「でも、お豪いわ。自炊をつづけてらっしゃるの、お風呂の中でさきも、槙さんとお話してましたのよ。」
「じゃ、明日のお昼はひとつ、お二人を御招待しますよ。山の御馳走召し上ってもらいましようか。」
「お昼?」千鶴子は鏡の中から振り返って、「まア嬉しいわ。お待ちしてましてよ。どんな御馳走かしら。」
 駅へ迎いに行くときから明日の昼の招待について考えていたこととて、今になって突然思いついた冗談ではなかったから、材料もある程度明日の午前中に揃う手筈もあった。
「何しろ雪の中の手料理ですからね。東京で作ったのとは違うが、チロルの山小屋のときよりは少しはましかもしれないな。」
「あのときは何んだったかしら。スープとお馬鈴薯と、ソセージ、ね、たしかそうだったわ。」
 二人が顔を見合せて笑っている所へ、夕食の仕度が整い料理が出て来た。まだ湯から上って来ない槙三のことを矢代が訊ねると、きっと湯気でも見て何か考え事をしているのだろうと千鶴子は笑った。そこへのっそり入って来た槙三は窓よりの廊下の椅子にかけ山を眺めた。彼は常住坐臥あまり人間のことなど考えていそうでもなく、自然の動きと数の組み合せだけ考えつづけているためか、惑いのない動かぬ独特な微笑を湛えていた。純潔な赤い下唇が少し突き出ていて、大きく澄んだ眼は美しく、自分の気持ちの困惑など少しも人に見せそうもない、おっとり物云わぬ態度をいつも崩さなかった。何かそこに必ず誇りもありそうなことは矢代にも分ったが、それがまた彼の感じを一層よくしていた。
「明日のお昼に矢代さん、あたしたちに御馳走して下さるんですって。お山のお手料理よ。」
 炬燵の上へ厚板を敷いた冬の宿の食卓に対ったとき、千鶴子は槙三にそう云ったが、槙三はただにっこり笑っただけだった。
「料理されるのお好きですか。」
 と槙三は暫くして矢代に突然訊ねた。千鶴子は下手な槙三の質問に顔を一寸赧らめると、矢代の答え難くげな隙を埋める風に横から云った。
「この方そんなこと一番お嫌いな方なの。ですからあたし、明日の御馳走楽しみなのよ。」
「しかし、山にいますとね、里にいるときとは違って、料理を作ることはたしかに面白くなるものですよ。御馳走という字も坊さんから出て来たというの、よく分るなア。日本の船がむかし椎茸を積んで支那の寧波《ニンポー》へ行ったとき、あそこの坊さんの大将の、その日の務めの最大行事は、美味いものを弟子たちに食わせることだったものだから、山へ降りてあちらへ走り、こちらへ走りして材料を調えに走り廻った結果が、日本の椎茸が一番美味かったというところから、馳走
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