千鶴子と結婚した自分の全感覚は否定出来なかった。彼はこれこそゆるがせにならぬ六次元の夢の厳しさ、みやびやかさだと思い、飛び起きると薄霧に包まれて朧ろにぼやけている太陽に向って礼拝した。あの方が自分に結婚を赦され希望を満たせて下すったのだと疑わず、彼は両膝を揃え、赤児のような心でまた幾度もお礼をのべた。
「今朝はお早いわね。」
 母は朝食の仕度をしてくれながら、洗面に井戸端へ降りて行く彼に云った。
「どうも早く眼が醒めて。」と彼は気まり悪げに答えてから、ポンプで水を汲み上げて顔を洗った。それは洗っても洗っても、思わず顔の赧らんで来るような、何んとも云いかねる幸福な感じだった。
 朝食をすませてから矢代は自分の部屋に戻り、また千鶴子のことを考えた。しかし、千鶴子はまだこの自分に与えられた幸福な感覚さえ少しも知らぬのだと思うと、彼は自分ひとり授けられた充実した幸福に変りはなくとも、何んとなく一抹のあわれを感じて来るのだった。それも前日の苦心がただ夢に顕れたに過ぎぬ、と云ってしまえばそれまでのことだったが、しかし、それなら夢中のことの方が、はるかにいのちの充実した真の生活だと思ったほど、すべてがまったく活きている以上の実覚に充ちた美しさだった。
 その日一日、矢代はその睡眠中の出来事を、真実なことだと思って疑うことが出来なかった。それもそのことを千鶴子に伝えてしまっては、忽ち嘘のこととされてしまうに定っている迷惑となるのも、およそ分ったことだった。あの何ものにも代えがたい、一刻千金のいのちの感覚を、すべて夢だとされてはたまらなかった。しかし、まだこのままいつまでも黙っているなら、矢代にとって、千鶴子はこの世に二人いることにもなった。そう云えばたしかに睡眠中に顕れた千鶴子は、あれこそカソリックに少しも冒されてはいない緊迫した、真の日本人だったと頷けるふしがあった。
「あれだ。あの千鶴子の方がはるかに美しかった。」
 と矢代はひとり呟き、またもう二度とめぐり会うことも出来ぬ寂しさに、街の中をひとり方向も定めず歩いた。しかし、自分の真の花嫁と会うことの出来た嬉しさは、どの街へ出ていっても変らなかった。ヨーロッパをともに廻った千鶴子のことをふと頭に泛べても、あれは嘘の千鶴子だったと思うことが、だんだんこのときから矢代に強くなった。もし自分の子供を生んでくれるものがあるなら、あの七夕に出て来る星のような、前夜結婚したその千鶴子に生んで貰いたいと彼は希った。
 矢代はその日の夜、千鶴子にあてて手紙を書いたが、前夜の芽出度い個人的な喜びに関しては少しも触れなかった。そして、昨日の失礼した謝罪を述べて、カソリックについて意見がましく自分の云ったことなど、別に気にせずそのままつづけて貰いたいと書きながらも、ともすると、抜け殻になっているものに云うような慰めの優しい文面にもなるのだった。
 千鶴子に手紙を書いて二三日してからも、矢代はまだ結婚の夜の興奮がつづいて去らなかった。また実際彼は、夢でもなくうつつでもない、あのように不可思議なことがこの世の中にあることを知った以上は、いわゆる人人の眺め信じている実在というものは、何を意味するものだろうと考えるようになった。人はそれぞれ肉体を具えているのに、まったくあの没我のひとときの感覚の方がはるかに喜びを失わぬという奇妙な現象について――まったくそれにぶつかってみて初めて夢を夢とは信ぜられぬ理知について、――このようなことを矢代はいろいろ考えてみているうちに、人の生命というものの持ち得る感覚は、肉体の死滅の後もなお一層生き生きとしてゆくものかもしれないと思い始めて来るのだった。そして、
「いまはむかし。」
 と矢代はこういう日本の云い伝えて来た原理をくり返しくり返し呟いてみて、ふと、それなら人は生きていても楽しく、死んでもなお楽し、という結論に突きあたり勇気が一層増すのを覚えた。
 千鶴子からはどうしたことか返事が少し遅れて着いた。
 手紙の中に、返事の遅くなったのは幾度も手紙を書いては破ったからだとあって、今の自分は形のなさぬ苦しみに襲われていることがあるので、日毎に楽しさが無くなるばかりだということや、その原因となる主要な二三について書き並べてある中にも、やはり矢代が自分の信じているカソリックを虐める苦しさが一つあり、次ぎには結婚問題の再燃していることが挙げられてあった。
 こちらがこんなに喜んでいるときに、向うはそんなに苦しんでいたのかと、矢代は妙にそれがまた楽しく、情の移らぬ顔つきで手紙を読んだ。それも、丁度文面に、
「あたくしがこんな自分の苦しみなどを書きましても、残酷なあなたのことですから、きっとまたあなたはお笑いになることと思います。」
 とそんなことのあるあたりを読んで来たとき、矢代はその通りだ
前へ 次へ
全293ページ中172ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング