讐に似た淡い憂いもあるのだった。
「そんならどうしてここの家、士族じゃありませんの。」
 と矢代の母が父に、訊ね返した不服そうな言葉を、何か二人の気ばだった表情の間から、矢代は思い出すこともある。表面静に見えながら気象の強い母は、家系のことでは負け目を感じるのが不快らしく、何より武士道を重んじる心の姿勢は、年とともに母の中から強く感じ、そのために矢代は、父と母との間に立って苦しんだ日も、母の実家へ来る度びに思い起す記憶である。
 矢代が歴史に興味を感じ始めたのは、つまりはこの父母の家系の相違がもとだったが、平民の父が妻の実家の士族の遺風を尊びつつ、秘かに自分の平民をも誇るところは、他にまた特別の理由のあるのが後に分った。
 母の実家の滝川家の先祖は、士族とはいえ徳川系の譜代大名の士族ではなく、その以前の最上義光の家臣であった。最上家が上杉謙信の枝城の村上に滅ぼされて、その家臣の滝川家も野に隠れているとき、徳川時代となった。そして、土地を鎮める手段として、滝川家は新しい城主に召し抱えの身となって再び立った関係上、それ以来この地には徳川譜代の士族と最上時代の旧士族との土に対する伝統の古さを誇りあう意識が、いまだに他のどの土地よりも濃厚に顕れているのが現状だった。徳川時代を通じて、つねに譜代の士族に圧迫されていた旧士族の最上家の臣たちは、明治になると再び勢力を盛り返し、進んで文明進化の急先鋒に立った。そのため、この地の市会は二士族の勢力の渦巻きを絶えず描いて、大正、昭和となってもなおそれを続けている、保守限りもない遺風となっている。
 日本でもっとも保守主義と謳われているこの地の人心の底を、こうして流れ続けていた意識の中に滝川家があったということは、矢代家にとっては一つの幸福な事であった。何ぜかというと矢代の家も最上義光と同時代に、彼の九州の先祖の城はカソリックの大友宗麟によって、日本で最初に用いられた国崩しと呼ばれた大砲のために滅ぼされたのである。しかし、矢代家は城主の守る運命として、滅んで後に野に隠れたといえ、滝川家のごとく新しい城主の臣となる決意の出る筈はなかった。しかし、最上家同様に永く徳川時代を野人として隠忍して来たこの矢代家の悲しみは、どういう偶然か明治となって、ともかく最上家の永い悲しみの末の家臣である滝川家の娘と結びついたのだった。
 このことは、滝川家が士族であり矢代家が平民であるという、階級的な観点から見た場合に起る、ある無益有害な観念を無くさせる上に都合が良かった。それのみか、他の地と違い何より保守を尊ぶ気風を持った土地の滝川家としては旧士族を誇りとしている以上、当然に仰がねばならぬ旧主最上家の位置に、矢代家もまた同様位置する理由により、自家の士族も矢代家の平民に対しては、ある観念が逆に起り得べき立場にもあった。
「それじゃ矢代家、どうして士族じゃありませんの。」
 と矢代の母が良人に不平を洩した失敗のときも、父としては、妻の家が旧主最上家と共に滅ぶべき所を、浮き上った一時期の明るさに対して、それを暗さとして指摘し得られる場合だったが、恐らく子の矢代の身の上を思い、それも父は差しひかえたのにちがいない。
 すべてこれらの事は、この二家にとっては偶然とはいえ、偶然には神秘という契機をもった必然性が常にある。――このように感じたのは、恐らく子の矢代よりも、黙黙としてトンネルを穿つことに専心した彼の父の労苦の中から見出すことが出来るかもしれない。


 東京へ矢代の帰ったのはもう十月を越していた。彼はその翌朝眼を醒してからすぐ庭へ出てみた。朝日の射した庭にはもうよく爆けた石榴《ざくろ》の実が下っていた。彼は一番近くに垂れている石榴を摘まみ下げ、実の裂け口に舌をつけて汁を吸いながら、今日は一つ妹の幸子の所へ見舞に出かけようと思った。自分の勤めていた建築会社の整理部の仕事は、彼の小父の会社であり、当分休暇の届けをそのままにしていてもよかったので、すぐ社の方へ出る用もなかったが、病気もよほど良くなったという妹にだけはすぐ彼は会いたかった。矢代がパリで幸子から受けとった手紙の中に、
「お兄さんは東京を故郷だと発見されて羨ましいと思いますが、あたしは自分の故郷がどこにあるのか分りません。それが悲しいと思います。」
 そういう意味のことが書いてあったのを思い出し、彼は幸子のため凋れた気持ちを何より先ず慰めてやりたかったが、生れて以来東京で育って離れたことのない妹に、お前の故郷はここの東京だと教えたとて、東京を故郷だと思えない心に向って何んと説くべきか、彼にはそれもパリ以来の気がかりなことの一つだった。分りよく妹には両親の家系の違いを話し、先祖の苦しみや歎きがどんな希いで自分たちの肉体に伝わっているかも話さねばならぬ。
 矢代は引
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