けたらすぐやって来てね、モンパルナスへつれて来られたんだよ。何んでもこの近くだったな。語学教師を世話してくれと頼んでおいたもんだから、すぐ紹介してくれたのさ。」
 と久慈は事もなげに答えて笑ったことがあった。若い女の語学教師のアンリエットが久慈の所へ出入するのを矢代の見るようになったのは、それから間もなくのことだった。すべて矢代とは違って暢気で快活な久慈のことであったから、アンリエットに好意を持たれている久慈をひと眼で矢代は見抜くことが出来た。
「君はいつも元気がいいが、君の元気のいいのは油断がならぬぞ。今にがたがたッと来るから用心したまえ。僕はもう屋台骨が潰れてしまったからな。立ち上るのはこれからだ。」
 と矢代はある日腕を撫で撫で久慈にからかった。
「馬鹿いえ。がらがらッと来たのは僕の方が早いや。」
 二人は思わず笑い出したというものの、矢代は、これでいきなり外人の婦人に飛びついて、久慈のように電柱の蛙といった恰好で下からパリを見上げているものと、何んの飛びつく足場もなく喘ぎ悩みつつふらふらしている自分とでは、見るもの聞くものの感じの差の開きはよほど多いにちがいないと思った。それにしても、またとない東洋と西洋とのこの大きな違いを知る機会に、ただひと飛びにそこを飛び越してうろつく暇もないとは、久慈も勿体ない罪を犯したものだと、今さら恨めしく憤おろしく矢代は感じるのだった。
 冬はまだ全く去りかねたが、そのうち食事もようやく進むようになったある日、矢代と久慈とアンリエットと三人で、オートイユ競馬場にいったことがあった。この日は空もよく晴れていて、栗の林に囲まれた広い馬場の芝生の中で走る馬の姿は、それまで麻痺していた矢代の感覚を擦り落してくれた最初の生き物の美しさだった。日本でも見馴れた洋種の馬とここの馬の共通した栗毛の光った美しさは、捩子《ねじ》の利かない瓦斯にぼッと火の点くように、あたりの景色の美しさまで急に頭に手繰りよって来るのだった。競馬の終りの夕刻のころになって、急に春寒の野に霙が降って来たが、最後の障害物を飛び越した馬は騎手を振り落し、すんなりとした裸体で芽の噴きかかった栗の林の中を疾走してゆくその優美さ――矢代は霙に降り込められつつも立ち去ることが出来なかったその日の夕暮の感動を今も忘れない。
 この日あたりから、矢代はパリの静かな動かぬ美しさが少しずつ頭に沁み入って来たといって良い。彼は一人セーヌ河の一銭蒸気に乗って河を下って見た。またバンセンヌの森へも行き、サンジェルマンの城にも出かけた。モンモランシイやフォンテンブロウの森などとパリの郊外遠くまで出かけてもいった。一度パリからこのように外へ出かけ、そうしてパリへ戻って来る度びに、この古い仏閣のような街の隅隅から今までかすかに光りをあげていたものが次第に光度を増して来るのだった。
 こうして、矢代は今までぐらぐらと煮え返っていたような頭の中の動きが、街の形に応じて静まるのもまた感じた。さまざまな疑問は疑問として彼は解決を急ごうとはしなくなって来た。急いだところで分らぬものは分らぬのだった。彼の信じることの出来るものは、先ず今は自分の中の日本人よりないと思ったからである。しかし、もしこんなことを、うっかりと日本人に向って云えば、ここにいる日本人たちはどんなに怒るかとその嘲笑のさままでが眼に見えたが、眼に見えようとどうしようと、日本と外国の違いの甚だしさははっきりとこの眼で見たのだ。誰から何を云われようとも自分のことは失わぬぞと矢代は肚を決めてかかるのだった。
 こんな日のある午後、矢代は久慈と歩いているとき、千鶴子がいよいよロンドンから来ると告げられたのである。久慈と矢代は今までとて船中の客の話をどちらからもよくしかけて懐しがったが、千鶴子の話だけはどういうものかあまり触れ合わないように心掛けるのだった。沖や医者や真紀子などから来る便りは明らさまに話す久慈だのに、千鶴子のことだけ話さぬ久慈の気持ちを矢代は想像すると、アンリエットとの間にもうこれで何事か進行しているものがあるのではなかろうかと思ったりした。
「千鶴子さんが来たら、宿をどこにしたものだろう。」
 ロンドンから千鶴子がいよいよ来るというときに、こういう心配を久慈が矢代にもらすのも、勿論そこにアンリエットの影のあるのを矢代は感じた。彼はいつもに似合わず沈み込んでいる久慈を見て云ってみた。
「君が千鶴子さんの世話をするのが困るなら、僕がしたってかまわないよ。」
「そうか、迷惑じゃなかったら君に頼みたいね。僕は千鶴子さんと別にどうと云ったわけじゃないんだが、船の中であんなに親切にしておいて、今になってがらりと手を変えるようじゃ、あんまり失礼だからね。」
 久慈は急に気軽くなった調子で矢代を見た。
「君がいいん
前へ 次へ
全293ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング