なら、そんなことは俺だって。――」
 とまた思う。
 顔からそれていった噴水が反対の森のうえに砕け散って霧を立てていた。その霧を自動車の車輪が巻き込んで逃げてゆく。矢代は樹の間を遠ざかって消える車を眼で追いつつ、
「とにかく、俺という男は自分というものがやはり一番好きでまた嫌いなのだ。あの自分の馬鹿さ加減一つ知らずに、ここにこうして坐っていたアルマンが羨ましい。――」と矢代は思って、
「ボアへ行きましょうか。あそこなら、何か手ごろな食べるものがあるでしょう。」
 矢代はベンチから立って凱旋門の向うにあるブロウニュの森の方へ歩いた。そこの森は二人にとっては思い出のある所だった。まだそのころは春だったが、二人の気持ちの初めて通じ合ったのは夜のその森の中のことで、それまでは矢代は千鶴子に物いうにも久慈に気兼ねを要したのに、真暗な森の中の道に迷ったのが二人の縁の初めとなり、一寸先も見えぬ闇の中を二人は手を引き合いつつ、湖のボートの傍まで出たのである。今は特にその思い出の巡礼をしようというのではなく、この度は食に困っての巡礼だった。


 森の中のパピヨン・ロワイヤルだけは常の日と変らなかった。黄色と朱の縞目になったビーチパラソルが樹の幹の間に立ち並び、鉢台の上で淡紅色の紫陽花が花壇を造っていたのも、今日は大輪の薔薇一色に変っていた。矢代たちはようやく食事にありつけた明るさで空腹を満たすことが出来たので、食後のコーヒーも普段よりは楽しめた。鉢台の薔薇の間で輝いている湖上の白鳥を見ながら、矢代は、
「やはり額に汗してパンを食べるに限りますね。いつもよりずっと美味しい。」
 とほくほくして云った。
「でも、いつもここまで来るのは大変だわ。」
 葉の色よりやや薄い竹色の椅子の背には、ショールの銀狐が巻きついていた。樹影の色で青白んで見える客の中には居眠っている顔も見えた。遠方の樹の間で閃めくコンパクトの面に眼を刺されつつ、矢代は湖の中の島を眺めて云った。
「いつかの夜、あの島の中で道に迷ったときは弱りましたね。」
「そうそ、でも、あのときあなた嚇かすからあたし、恐くなったんですのよ。ここは一名魔の森っていうんだって仰言ったでしょう。覚えてらして?」
「そんなこと云ったかしら。しかし、このあたりの夜の森じゃ、何をされたって罪は向うにないのですからね。夜になると自動車が八方からこの森へ這入って来るのだって、何も罪はこっち持ちだ、という権幕なんだから、あれはまア、自然を失った人間というものは、一切から解放されればどんな様子をするものか、試しに周囲五里の森を与えてあるようなものだな。実際この森がなかったら、パリの人間、呼吸困難になるかもしれないですよ。」
「恐ろしいところね。そんなところ日本になくて結構だったわ。」
 ボーイの持ち運ぶ皿がまた光って眼を刺した。オーケストラが樹の下から起った。湖面に漣が立ってゆらめく度びに、照り返しを受けたあたりの芝生の面もともに影を細かく揺らめかせた。
「マロニエの咲いていたころは、ここでこうしてコーヒーを飲んでいても、花が上から落っこちて来て手で払うのに急がしかったもんだが、もうお別れか。早いものだなア。」
 悲痛な思いも冗談のように笑いにまぎらせて話すことが出来るのを、一つはこれもここのこの景色の美しさのためかと矢代は思った。
「でも、日本へ帰ったらお会いしましょうね。あたしね、日本へ帰ってからあなたにお会いするの、今から楽しみなの。ここでこんなに苦心をしてコーヒー飲んだのも、きっと面白いお話になってよ。あなたの方が早く帰るんですから、あなたよりは待つだけ楽しみが多いわけね。おお、楽しい。」千鶴子は喜んだ。
 自分はもう会うまいと思っているのに、何んという千鶴子の気軽さだろうかと、彼女の喜びつつ手を胸に上げる仕種を矢代は眺め、ふと恨めしく思うのだった。しかし、それもすぐ彼は追い払うことが出来た。外国での約束などただ楽しみにすぎぬとはいえ、今はそのような儚い夢も満足のしるしとして受けるべきこそ旅だった。
 矢代は久慈に食事場を見つけたから来るならここよりないと電話で教えたかったが、電話をかけてみたときには久慈はホテルにはいなかった。定めし真紀子と一緒に今ごろは、こんなにコーヒーを探し求めて歩いていることだろうと云って、千鶴子と彼は笑い合った。
 ロワイヤルを出てからすぐ裏の森の中へ二人は這入っていった。鶯や小鳥の声がだんだん増して来た。栗や櫟の樹の密生した中を道からそれて、枝を撓めたり蔓草を踏み跨いだりしながら、なるだけ人声の聞えぬ方へ歩いた。この森の木の葉は初毛のように細かく柔いので、どこまで行っても森の中は明るかった。雑草も芝生の延びたのが多く、それも踏み馴らされた人擦れのした草ばかりだった。
「まったくここは
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