。」
「もうそんなになったのかしら。」
「なってるらしいんだが、案外見たところは静かですね。」
 近よって来た見馴れた鳩の指が芝生の露に洗われうす紅い菠薐草《ほうれんそう》の茎の色だった。雀も濡れたまま千鶴子の沓先で毬のように弾み上っていた。
 二人はベンチを立ってまた園内を廻った。山査子の花の咲いていたころ矢代は無我夢中にこの森の中を歩き、息切れを感じるほど強く千鶴子に牽かれたある瞬間を、ふと今も踏み応える砂から感じとった。よくもあのとき千鶴子を振り切ってパリをひとり旅立つことが出来たものだと、矢代はある疲れに似た思いで追想しながら、あのころよりも一層濃くなった緑の色のむらむらと打ち重なった樹幹を眼で選り分け、日光の射し込んだ花壇の方へ千鶴子を誘っていくのだった。
「旅行をしていると、流れてゆくままにも自然に心に巣が出来てくるものですが、僕はこのルクサンブールがいつの間にか巣になってしまった。僕はここで暮したようなものだな。」
 葵の花を廻りながら矢代は自分の得たものは結局何一つなかったと思い、これから日本へ帰っても依然として旅の心はつづいてやまぬにちがいないと思った。
「あたし、あなたにここでいろいろな事を教えていただいたわ。でも、もうじきお別れしなきゃならないんですのね。」
 千鶴子は矢代も当然二人の別れる日の迫っていることを感じているらしい風情で、葵の真直ぐな茎に手をあてながら云った。そうだ、やっぱり千鶴子とは別れなければならぬのだと、矢代は胸に一条の刃を入れられたように慄然として黙った。もう悲劇が自分にも来たのであろうか。彼は朝の日光が白みわたるほどぼんやり心の弛むのを感じる。その後から後から追い襲って来る激しい胸の疼きを食い殺すように俯向いて歩いた。何か千鶴子は自分に分らぬ事情で結婚の意志を退けているのに相違ないと矢代は思い、自分から思い切って千鶴子にそれを云ったならと、そのようにも考えたが、しかし、昨日まで自分は結婚のことだけは云い出しもせず忍耐することが出来ていたのに、今この忍耐を破るとは何としても情けない気持ちだった。
「ロンドンのお兄さんから、何かお便りあったんですか。」
 矢代はようやく思いあたるところを感じて訊ねた。
 千鶴子は、「ええ。」と低く答えたまま、暫く重く黙っていてからまた云い澱む風に云った。
「兄さんもう日本へ帰るんですの。あたしの来るときもう帰るんだったんですのよ。でも、少し延びたと云って来たものですから、急いであたし来てしまいましたの。まだお話しなかったかしら、あたし。」
「ロンドンにいらっしゃる事だけは聞いていましたが。帰られれば千鶴子さん、どなたかと結婚なさるんでしょうね。」
 もう一番の訊きたいことを訊くことが、何んの不思議もない日常の会話のように見える様子で矢代は訊ねた。
「それもあるんですの。困るの。ほんとに。」
 葵の花が薔薇に移り変る切れ目の所で、弁の縮れた模様を検べるような首垂れた千鶴子の細い眉が、花明りに照り映えたあきらめの静かな線を描いていた。矢代は予想が一つずつ的中してゆく恐れと同時に、千鶴子のその静かなあきらめが物足らなくなり、抑え難い暴力に似た力の湧きのぼるのを感じた。
「あなたはどうしてもその人と結婚しなきゃいけないんですか。」
 矢代はふとこう問いつめたくなったが、そう云えばもう二人はお終いの頂きに出ることだと気がついた。彼は出かかった呼吸もひきとめまた暫く花壇の中を無言で歩いていたが、しかし、自分は自分の愛情だけは疑えない、これが嘘だといえる筈がないと思い直すのであった。
「さあ、御飯を食べに行きましょう。」
 矢代は千鶴子を東門の方へ誘って公園を出てゆくと、今さきまでの狂い立つような気持ちを捨てリラの方へ歩いていった。しかし、歩くにつれて、もう別れねばならぬと思ううす冷い覚悟が視野の全面に漲って来て、立ち並んだマロニエの並木の黒い幹も、これも心に爪を立てられた思い出の一つになるのだと矢代は思い沈むのであった。


 リラまで矢代たちの来たとき、リラは戸を閉めて全部の椅子が片附けてしまってあった。二人はそこから行きつけの食事場へ行ってみたが、その店も入口はみな閉っていて、テラスの椅子もテーブルの上に足を仰向けて並んでいた。矢代はまだ店が始らぬのかと初めは思ったが、見ていると通りから見える所の入口の向うで、いつも矢代の卓へサーヴィスに出て来たボーイ頭が支配人に立ち向い、何事かいどみかかるような興奮した姿で話していた。ぴったり閉じられたガラスの中なので話は聞えなかったが、電気の消えた店内の暗さを背景にしているため、漸く通りの明るみを受けた支配人とボーイ三四人の顔が、水族館の中の鮫のように物物しく映って見えた。ときどき穏やかな顔に弛んだり、また抗弁したりするボー
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