しかし、この前後から今まで音無しかった三島の顔は、何んとなく生き生きとして来て笑う声も一段と高かった。船中でも猫のように静かで誰よりも遠慮深く謙遜だった三島であるが、一と度びアルコールに触れると船中一番勇敢に溌剌となって、外人の婦人の誰彼なく肩を叩き廻り、靴まで脱がせて喜ばせたことがあった。
「自分の青春をパリで送ったものは、極楽へいった男だ。わたしは遅すぎてパリへ来た。いまいましいな。」
 こういう沖に、子供を一人残したまま妻を死なした独身の三島は、
「そうだそうだ。」と相槌打って身体を始終もぞもぞと動かした。
「これで日本の青年たちは、どんなにパリをあこがれているかも知れませんぜ。それを皆さんここまで来て、何をくよくよしてるのですか。僕は君らを見てると、まるで坊主を見てるように思えますな。僕がもし諸君だったら、あるだけの金をここで使うてしまう。ここでケチをする奴は、そ奴は一番阿呆な人間じゃ。」
 割れかかった石榴《ざくろ》に石を加えたように沖の言葉は久慈の心中へどしりと重みのある実を落した。すると、突然、矢代は遮るように、
「それは沖さんの感傷だな。ここは全く監獄だ。僕らはみな金を家から送って貰ってる俊寛ですよ。こんなところでうつつをぬかしたら、もう最後だ。」
 と云った。
「あなたは船の中でもお坊さんだったからなア。まア、坊さんは世界のどこへいったって坊さんだ。」
 と沖はひとり首を動かして頷いた。
「いや、かまわん。パリで坊さんしてやろう。」
 と矢代は後ろへ反ってナフキンを唇にあてがった。三島は矢代の肩をしきりに叩きながら、
「あんたは坊さんなんかになりなさんなよ。え? 何が坊さん面白いのだ。」
 にこにこと眼尻に下った好人物らしい皺を笑わせて云う三島を見ると、今まで全く忘れていた船中の三島の癖を皆は思い出したらしい。ぎょッとした顔のまま同時に黙ってしまった中で、
「お元気になったわ三島さん。またあたしに靴を脱げと仰言るんじゃありません?」と真紀子ひとりは三島から身を引くように反らしてからかった。
「はははは、靴か。靴脱ぎなさいよ。どうもあ奴を覚えてられると、僕は羞しゅうて。」と云いながらもう三島はしきりと真紀子の靴の方へ身を跼めて眺めた。若者たちを煽動して鬱を晴らしていた沖も、「これや、今夜は無事にはすまぬ。」と思う様子で少し不機嫌になって来た。
 アルザス料理から一同は外へ出ると、河風にあたろうと云うので少し下ったケエドルセイの通りをセーヌ河に添って歩いた。ここは人通りは誰もなく瓦斯灯だけ鬱蒼とした樹の間から光っていた。真紀子は河岸に並んだ古本屋の閉った緑の箱の間から欄壁に飛び上ろうとする三島を絶えず心配して、「危いわね。落ちついてらっしゃいよ。」と袖を曳くように彼の腕を掴んで歩いた。三島は鳥を追うような恰好で、「ほう、ほう。」と夜空に黒黒と続いたプラターンの大樹を仰いで叫んだと思うと、真紀子の腕から脱け出そうとしてまた引き据えられた。それでも三島は片足を高く上げつつずんずん一人先の方へ進むので、いつの間にか真紀子も一行から放れて先になった。三人は幾らかの酔いも醒めてしまって三島達の後姿を見送っているとき、
「ほう、ほう。」とまた三島は三人の方を振り返って遠くから叫んだ。そのうちに停っていた自動車のドアを開けて中へ消えると、真紀子も後から皆に手招きして乗り込んだ。その途端、自動車は待ちもせずそのまま簡単にずるずる辷り出して橋を渡っていってしまった。
「あッ、これやいかん。」
 と久慈は云うと周章てて停っている別の自動車へ飛び乗った。そして、皆も待たず三島の自動車の後を追わしていったが、もう三島たちの車は、真青な瓦斯灯の光りの張った鏡のようなコンコルドの広場の中を突き辷っていた。別に何んの驚くべきことでもないと思っても、それでも久慈は不安だった。矢代や沖も当然後から追って来るものと思って前の二人の車ばかり見ているうちに、車はオペラの方へ消えて見えなくなった。あの二人をそのままにしておけば何事か今夜は起るにちがいないと、久慈はだんだん不安が増して来た。しかし、起ったところで今は独身の二人であった。それならむしろ出来事は二人にとって何かの幸福の原因になるかもしれぬと思った。彼は急に車の速力を停めさせた。そこで暫くぼんやり後ろを向いて待っていたが、一向に矢代たちの追って来そうな気配はなかった。いつの間にか来ている皎皎として青い広場の中で、老いた古い女神の彫像だけ周囲の噴水の飛沫を浴びて立っていた。
 久慈はゆるく車をもと来た方へ女神を廻らせていった。解き放されたような気怠い疲労の眼で女神の顔を見ているうち沈み加減なその横顔の美しさに彼は胸が不思議に波立つのを感じた。すると、突然、あれはお母さんの心配している顔だと思った。
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