緒になり、明日の船のノルマンディもまた二人は同じだということだった。見たところ暫くの間に三島は一層前より憂鬱な顔に変っていた。沖は反対に老人にも拘らず眠っていた闘志が燃え上って来たらしく、若者のようないら立たしさが額のあたりにてらてらと光っていた。
「はア、もうイタリアではボラれたボラれた。ネープルスを見んと死ぬなというから、ベスビヤスまで登りましたが、自動車賃をあなた、たった二時間半で二百五十円とりよった。それにネープルスは汚いとこじゃ。あんなとこ見て死んでられるかい。わしは日本へ帰ったらもう一ぺん会社を起してやろうと思うてます。何アに。」
 こう沖は云ったと思うと声の調節がつかぬと見え馬鹿に大きな声で、「何んですなア、西洋という所は、男ひとりで歩くと馬鹿にしよる。もう酷い目に会うた。こんどは一つ、うんと美人をつれて歩いてやらにゃ、もう腹の虫が納まらん。」
 部屋の中の日本人は皆くすくすと笑い出した。沖は一同を見廻すと演説をする時のように腹を突き出し、「ははア。」と愛想笑いを一つして云った。
「わたしは昨日まで日本語を一つも云わなかったもので、もう今日は皆さんを見ると、饒舌りとうて仕様がない。」
 聾者が急に聞え出したように噴出して出る想念の統制がつかぬのであろうか。沖の云うことには全く連絡がもうなかった。
「三島さん、何かお土産ありました。」と久慈は黙って沈み込んでいる三島に訊ねた。
「いえ、何もありません。帰ったら叱られそうで考えてるところです。」
 多額の金銭の支給を受けて視察を命ぜられ、何一つ新しい発見もせず明日帰ろうという機械技師の苦衷は、自分の想像外の気重さだろうと久慈は思った。
「一つもないって、じゃ、やはり日本はそれだけ進んでしまったのですか。」
「そうですね。」と三島は、日本がそれだけ進んだのか或いは自分の鈍感さの結果だったかはまだ疑問の風で笑顔一つもしなかったが、「一度ある国でこんなことがありました。僕が工場を視察していましたら、面白い形の機械を一つ見附けましたので、珍しそうに眺めていますと、向うから写真を撮るなら撮って下さいと云うのです。どこでも視察は許しても写真だけは許しませんから、親切なところもあるものだと感激して、それではどうぞと幾度もお礼を云って撮らせてもらいましたが、宿へ帰って現像をして見ましたら一枚も写っておりませんでした。」
「どうしたのです。それはあなたの失敗なんですか。」と久慈は重ねて訊ねた。
「いや、工場へ這入る前に庭で二三分待たされましたから、多分そのときどっかから光線をあてて透してしまったのだと思います。」
 聞いていた者らの顔色はさッと変って黙った。久慈も一瞬無気味な寒さに襲われた。しかし、考えればそんなことは当然のことで別に怪しむに足りぬことだと思った。眼に見えぬ光線を透されたのは写真の種紙ばかりではない。この部屋に集っている東洋人の頭の中の種紙も、誰も一様にある光線にあてられすでに変質してしまった頭になっていた。表面の顔は変らぬながらも、一言もの云えば無数の手傷を負った頭を直ちに暴露するのである。またそれらの頭の変化の仕方は久慈型か矢代型かのどちらかであり、もう一層激しいのは隣室の中国人同様全く西洋の模倣そのままの頭だった。
 隣室の中国人の集りはわけてもこの変化が極端であった。場所の不潔さは面を蔽いたくなるほどだったが、ホールではテーブルを囲んだ男たちの中へ誰か一人中国の女が来ると、同時にさッと皆が立ち不動の姿勢で女の腰を降ろすまで直立して待っていた。女は椅子の背に露わな腕を廻した不行儀な横着さで、煙草を吹かせひとりべらべら饒舌りまくっている間も、男らは神妙な恰好で女の云うことを傾聴していた。数組のテーブルの中にはこれとは別な中国人もあって、それぞれフランス人の美人を一人ずつ連れていた。これらの者はもう東洋人は卒業だという顔つきで、一種特別なみいらに似た物静かな構えだった。
 久慈はこのようなみいらが団結した模倣力で、それぞれ本国の東洋に渦巻き起す風波の結果を考えると、抗日意識の高まりが戦争を惹き起してゆくことなど当然だと思った。これは行くところまで行かなければ恐らくやむまい。ここに日華の共通した精神の連結作用が、どちらも西洋の模倣という一点に頼る以外方法はないものであろうか。何か東洋独自の精神の結合に似た一線はないのであろうか。
 久慈は中国人のいる大部屋の方を眺めながら、いつの間にかまた矢代の日ごろの考えの中に入り込んでいる自分を発見して、いや、おれのはまた矢代とは別だ、共同の一線を発見することだと強いて心中思おうとするのだった。
 約束の時間がすぎて間もなく矢代は二階へ上って来た。彼は久慈の傍に思いがけない沖や三島のいるのを見つけると、故郷の見えたようにひどく喜んで
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