支えていた。
「どっかでサンドウィッチ食べましょうか。お腹が空いて来たわ。」
延び上って来る千鶴子の肉声が耳もとですると、矢代は腰の手巾の包みを開けて出した。
「こんなところでいやしんぼうすると、断層の中へ落ち込みますよ。」
「じゃ、あなたも召し上れ。」
手を延ばしてサンドウィッチを取る千鶴子の頬笑みから矢代は目を反らした。心にこれだけは云ってはならぬぞと、云いきかせた二人の慎しみの裂け口を飛び越す思いであった。
「僕は監督だからな。」
軽く笑いながら自分も食べる矢代を見て、
「おやおや。」
と云いつつ千鶴子は今度は自分が先に立ち、氷の牙を登っていった。矢代はカメラを千鶴子から受けとった。
氷の尾根の線に添いおぼろな虹が立っていた。その中をまた二人は登り降りしつづけた。汗が全身に廻って来ると、矢代は、もう身を取り包んでいる周囲が尽く氷河だとは思えなくなって来た。物云うのもだんだん億劫になって来て、足もとに開いた断層も何んの危険な深みとも感じなくなるのだった。
「お疲れになって?」
千鶴子は氷河の三分の二ほどのところで氷の歯の上に跨がり、矢代を見降ろして訊ねた。矢代は彼女の垂らすバンドに掴まり、「何あに、大丈夫。」と云いつつ登ったが、あたりに漲る強い白光に眉のあたりが痛んで来た。
「そう早く登られちゃ嫉妬を感じるね。」
冗談にまぎらせてそう呟くものの、事実矢代は氷河の尾根を軽軽と乗り越す千鶴子に疲労の様子の少しもないのを見ては、振り向く度びに胸に光る彼女のブローチの金具が腹立たしかった。
「駄目ね、あなたは。」
これも冗談とはいえ、彼の体力の不足に刻印を打つように矢代には強く感じられた。ときどき一寸ほどの幅の割れ目が稲妻形に氷の面を走っていた。その割れ目にピッケルをひっかけ、遅れつつ呼吸を途切らせてようやく千鶴子に追いついた矢代は、何んとなく今は彼女に負ける楽しみの方が勝ちまさって来るのだった。
「一寸、千鶴子さん、撮りますよ。」
矢代は豊かな気持ちのままカメラを千鶴子に向けて云った。千鶴子に用意を与えず峰から振り向いた途端、そこをもう矢代はシャッタを切った。負けた良人が勝ち誇った妻の写真を撮るような快感さえ感じ、矢代はひとり快心の微笑を洩らしながら、
「もう撮りましたよ。どうぞ。」
と云った。千鶴子は体をねじ向け、「あら、」と不平そうな媚態で氷の矛の上から彼を睨んだ。矢代は上まで登って千鶴子と並んで立った。
「さア、もうこれ一つ渡ればいいのよ。」
「何んとなく楽しかったなア。」
矢代は越して来た危険に満ちた多難な峰峰を振り返った。並んだ二人の影が西日に長く氷の上に倒れて、そこから七色の放射線が前より一段強く空に跳ね返っていた。
「これで終りですから、並んで一緒に辷りましょうよ。」
そう云う千鶴子の晴やかな提案のまま二人は最後の氷河の尾根に並ぶと手をとり合った。そして、一、二、三のかけ声もろとも氷の斜面を辷り下った。
「とうとう征服してやった。」
と矢代は汗を手巾で拭き拭き笑った。
「ほんと、もうここならこれでスイスよ。」
二人は靴の上から履いた靴下を脱ぎ手袋をとって小舎を探しにまた路にかかった。山頂より少し下った所に丸木を組んだ小舎が見えた。千鶴子は先に立ってドアを開けた。
小舎の中には頭と腰とを交互に並べた牛が部屋いっぱいに満ちていた。その中央を僅かに通れる幅の通路があり、そこを進んだ正面のとりつきにまた一つドアがあった。千鶴子のノックで開いたドアの中から、客間らしい椅子テーブルの明るい部屋が現れた。中でひとり編物をしていた様子の老婆が出て来たので、千鶴子はフランス語で今夜の宿を頼んでみた。客の少ない季節のこととて二人は容易に部屋をとることが出来た。千鶴子はまた羊の帰る谷間はどこかと訊ねてみると、老婆は窓からゆるやかに見える下の山峡を指差して、
「もうすぐここの谷間へ羊が集って来ますよ。」
と教えてから古風な柱時計を振り返った。
「もうすぐもうすぐ。早く外へ出て行ってごらんなさい。」
手真似を混ぜてせくように云う老婆の言葉に随い、二人はテーブルの上に持物を置いて外へ出ていった。
もうその日の宿をとったからは二人は安心だった。一本の樹木もない峡間に拡がった牧場の見える路へ出て、そこで食べ残りのサンドウィッチを食べ始めた。
「今日は良いお天気だったから、きっとお星さんが降るようよ。ほんとに来て良いことをしましたわ。何んてあたしは幸福なんでしょう。胸がどきどきして来てよ。」
千鶴子は髪をかき上げながら周囲の山山を見廻した。矢代は黙ったまま、サフランの花の中で寝てみたり起きてみたりした。氷河は左方の斜面にねじ曲ったおおどかな流れの胴を見せていた。矢代は幾らか疲れが出て来た。手枕のまま頬に冷たく触
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