見つづけているうちに、山山の肌は深海を覗くような暈《めまい》を感じさせる。千鶴子は装飾窓にかかっている土地製のチロル帽を欲しがって店店を廻った。
「これどう。あたしに」
 おから型の縁を縄のように縒ったリボンのチロル帽は、都会の婦人に喜ばれる風だったが、それも旅の愁いの現れに似ていた。この街には土地の者はあまり見えず、滞在客にイギリスやドイツから来る旅人が多いらしい。装飾窓の品品も写真機とか山岳地の木彫の玩具とか、民芸風のリボン、帽子などが多かった。絵葉書の絵にも氷河を後ろに旅人と別れを惜しむ土地の娘の悲しさがあり、遠い異国の方へ流れる雨の行方を見つづける人の姿絵なども、矢代には旅の感傷となって生きて来た。
「ほんとに、ここはあんまり静かで、耳が痛くなるようね。」
 靴の音の響き返る鋪道を歩きながらも、建物の間からふと見える氷河の根を見て千鶴子は立ち停った。
「東野さんもいらっしゃれば、きっとまたここで俳句をお作りになることよ。ブロウニュの湖水では、面白うござんしたわね。」
 矢代はいちいち軽く頷きつつ公園の方へ歩いた。街の端れにある公園は矢代の見て来たどこの公園よりも美しかった。地の上まで枝を垂らしている大樹の間から、鉛色の山肌に下った氷河が鋭く、手も届きそうであった。
「今日は暑くなりそうね。きっとあの山が焼けて来たからだわ。」
 ハーフレカールの山頂の迫った下にテラスがあった。樹陰いちめん白布を敷いたテーブルが並んでいて、一人の客もない白い広さの中に二人は休み、ミルクを註文した。鶯の老けた声が小鳥の囀りを圧して梢から絶えず聞えて来た。昨夜の雨でまだ濡れている日蔭の道を、ウィーン風の立派な白い髯の老紳士が、杖をつきつき衰えた歩みを運んで来る。千鶴子は口についたミルクを手巾で拭きながら、
「あなたも俳句お作りになるといいわ。」
 と矢代にすすめて笑った。
「もうそれどころじゃない。こんなところにいると、何をしていいか分らなくなりますね。まるで馬鹿みたいだ。」
 足もとへ擦りよって来る栗鼠の敏捷に動く尾を見降ろしていた矢代は、全く張りのなくなったように、清澄な空気の中で今にも欠伸の出そうな顔であった。
「こんな美しいところで人間が一生棲んでいたら、非常に勉強したくなるか、博奕ばかりやりたくなるかもしれないな。」
「でも、ここはオーストリアじゃ、一番お金持の多いところだそうでしてよ。」
「それや、人の胆をこんなに抜けば、お金は儲かりましょう。氷河で儲けようってんですからね。」
 大樹の繁った園内では真空のように一本の木の葉も動かなかった。小鳥の声のよく響く樹幹をめぐり、薄紅色の紫陽花の群れが蜂を集めている。矢代は片頬を肱で支えテーブルに凭れているうちに、卓布の上を這う山蟻がだんだん大きく見えて来た。身体が浮き上っていくのか沈み込んでゆくのか分り難い。日光のあたっている胸が気だるく大儀になると、「さア」と矢代は云いつつゆるりと立った。木蔭の所どころに塊っているベンチの人も、物云う者は誰もなかった。どの樹も小鳥の声の泉かと見える。幹を降り辷って来る栗鼠だけが、氷河の襞に湧く虫のように自由にぱちぱち這い競って動いていた。
「お昼から山へ登りましょうね。あたし、写真機を買おうかしら。」
 千鶴子ももう云うことがないのだと思うと、一口の無意味な彼女の言葉も、両手で受けたく清らかに矢代には見えるのだった。
「あなた写真お上手ですか。」
「それが駄目なの。でも、撮れればいいわ、きっと後で失敗ったと思うんですものね。」
 と身の廻りでほッと開く連翹のような鮮やかさで笑む千鶴子を、樹陰からこぼれ落ちる日光の斑点の中で、矢代はただ今は頷くばかりである。
 写真機を千鶴子一人に買わせるよりも、二人で買う方が旅の記念にもなると思い、矢代は等分に金を出し合うことを主張して、ある店で手ごろなシュウパアシックスを買った。
「あたし、この写真機いただくわ。でも、それはあなたとお別れするときでいいんですのよ。大切にしまっときたいと思うの。」
 こう云う千鶴子に勿論矢代は異議がなかった。間もなく必ず別れねばならぬ二人である。そして、そのように思っても別に悲しみを感じない。異国の旅にふと出会ったかりそめの友情であってみれば、日本にいたときの互の過去さえすでに白紙であり、またそれをどちらも探り合う要もない、共通の淋しさ儚なさを守り合う身に沁む歎きはあるとはいえ、それはただ甘美な旅の情緒にすぎない。
「まア、自転車のチェーン、こんなによく聞える街って、珍らしいわ。」
 教会堂の高い十字の下で、千鶴子は塵一つない通りを辷って行く自転車を振り返って云った。どの街にも人はあまりいなかった。彫り深い彫刻のようなその静かな通りに、生き生きと影だけ明瞭に呼吸しているこの都会の奇怪さ
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