われるのは、これはいったいどうしたというのだろう。――
 矢代は小首をかしげ道の中央に立ちはだかったまま、なお山を眺めつづけてやめなかった。すると、雲つくばかりのそのミルクの巨塊は静かに潜んだ雷電の巣のように見えて来て、見れば見るほど力が胸から吸いとられていくのだった。
「この山は見ると悪いのだな。」
 と矢代は思った。彼は汽車の来るまで山の見えない待合室に隠れ、自分の荷物の傍へよりそっていたが、どうにもその不思議な山が気にかかり、ときどき屋根の下から出てみてこっそり山を仰いだ。すると、その度びに脊骨の中が暗鬱な痛みを覚え、周章《あわ》ててまた屋根の下へもぐり込んだ。
 時間になって軽便のような汽車が著いた。矢代は汽車に乗るとまた幾らか気持ちを取り戻した。窓から石炭の粉がひどく這入って来たが、レールの周囲の高原は眼を奪うばかりの花で満ちて来た。彼は窓から首を出し、花の中を割るようにして曲ってゆく汽車を見ていると、ぼこぼこ煙を吐き出している苦しげな機関車が道化た老人じみて面白かった。牧草の花の向うに氷河を流したスイスの山山が連って現れた。羊の群れが山峡の草の中を地を這う煙のようにぼッと霞んで見えたと思うまに、また花に満ちた高原が両側につづいた。
 こんな綺麗なところなら今夜ホテルへ著いてから千鶴子へ約束の電報を打っても良いと矢代は思った。パリを出発するときチロルへ著く日と宿とを報らせておいたから、あるいは久慈だけでも今ごろ先に宿に著いているかも知れぬと思われたが、それでもまだ当分彼は久慈に逢いたいと思わなかった。
 パリにいるときさまざまな議論をしたことなど考えると、久慈への懐しさは日に倍して来て、彼はもう永らく一言も饒舌らぬ日本語をぶつぶつと久慈に向ってひとり呟くほどだったが、まだ言葉の分らぬこの一人旅行の楽しさは、今も何物にも換え難かった。
「こんな所へ来ないなんて、馬鹿だな君は、何んて馬鹿だ。」
 矢代は声に出してこんなに云ったりした。そして、窓枠に顎をつけ、山脈を蔽った氷河を見ていると、世界の空気が自分一人に尽く与えられたように感じられ、涙が溢れて来て幾度も眼を拭いた。何というか、それは生れて以来の時間の重みが一時に解き放され、羽搏き上った放楽のような夢に似ていた。
 彼は窓から乗り出すようにして繰り現れる景色の一点も見逃すまいとした。色とりどりの花の波が高く低くうねりながら古城を巻き包んでいる。少女がその高原の中を真直ぐに自転車のペダルを踏んでいく。霧が谷間から湧き上って来る。
「いや、来て良かった。もう何ものも要らん。」
 深く頷く矢代の眼の前で機関車は、高原の風景はまだまだこれからだと云わぬばかりに無限に頁を繰り拡げていくのだった。こうして、日の暮れかかる前にようやくチロルのインスブルックへ著いたときは、矢代はがっかりと疲れてしまった。
 クックであらかじめとって貰って置いたホテル・カイザは駅からすぐだった。彼は久慈から手紙でも来ていないかと思い訊ねてみるとそれはまだだったが、出された宿帳へ名を書き入れてふと自分の名の上の署名を見ると、千鶴子の名が見覚えの筆跡で書いてあった。
 疲れとともにようやく人恋しさの加わっているときだったので、矢代はあたりの室内が急に体温に温められた明るさで満ちて来た。案内されて登る未知の階段ももう自分のもののような手触りを感じ、せかせかと馳け登りたい親しさだった。定められた部屋で旅装を解いてから、矢代はすぐ千鶴子の部屋を訊ねてドアを叩いてみた。
「あんとれ。」
 と中から声があり矢代はドアを開けた。
「あら。」手紙を書いていた千鶴子は、振り向くと同時に急に安心したようにペンを投げ出して立って来た。
「あたし、ひやひやしてましたのよ、今朝著いたんだけど、もしかして矢代さん、いらっしゃらなければどうしょうかと思ってたところなの。」
 矢代は一瞬菊の香りに似た風が千鶴子の身体から吹き込んで来るように思われた。
「まア、青いお顔よ、お疲れになったの。」
 心配そうに云う千鶴子の前に立ったまま、矢代は、
「よく分りましたですね。」
 と云ってしっかり握手をした。全く彼は夢想もしなかった喜びに、煌煌と火の這入った満された思いでしばらく茫然として部屋の中を眺めていた。
「日本語を使うのは今日初めてですよ。何んだか変だな。」
「でも、御無事で良かったわ。」
「無事は無事ですが、夢を見てるみたいだ。僕は今来る途中で、とてつもない山を見ましてね、入道雲のような山なんですが、山全体が磁石で出来てるようなもので、そ奴を見ると、疲れてへとへとになるんですよ。」
 云うことがどうも頓珍漢になりそうなほど突然の気楽さのためか、事実二人がここにいるということだけで話などはもうどうでも良いのだった。
「まア、どんな山?」 
前へ 
次へ 
全293ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング