間に合いかねる心配も生じて来た。先頭の鋤の柄に巻いた奉書紙が蜜柑の葉の下を沈んで行くのが見え、そして、一行が矢代の家の前まで来たとき、家人は彼に茶を飲みによるようと奨めた。矢代は休息の間から忍びこむ不要な胸騒ぎを惧れて、葬帰りを口実に辞退した。家人は彼のためらいを察したものか強いてとは云わず、矢代の去り行くままに委せて彼に別れの挨拶をした。矢代は中庭をよぎり、蔵の戸にかかった鍵の歪みを最後の一瞥に残したまま、家の前から去ろうとしたときである。何か一瞬悲しい声のざわめきをあげて、後に姿を消した家から、
「薄情者ッ。」
 と、一声浴びた思いがした。彼ひとりの心情の寒さとはいえ、耳を蔽い胸を抑える気持ちで石垣の裾の坂路を下ると、彼はもう一度後ろを振り返って見直した。勿論、家は見たままの静かな姿で、入日を受けた明るい壁際に高高と桐の花を咲かせていた。それでも、まだ矢代の荷物ある寺の方へと足が早まろうとするのだった。
 母と別れて東京を発つときも、京都で先に待たせてあった千鶴子のことで、とかくに騒ぐ思いをし、今また郷里のわが家との別れにも、同じく京都で待つ彼女のために不義理を残して行くわが身を省み、矢代は、羞入る肩の竦みますます寒かった。寺の門を潜ってから洗う手も、自然に千鶴子を浄め落す丹念な水使いになろうとした。座敷へ上って居残った老人たちと茶を喫むときも、彼は頼んであった車の来るのを脱し、この夜はここで泊って行こうかとも考えたが、この日を一日遅らすことは、京都で落ち合う筈の千鶴子たち一行との約束も脱すことだった。それを脱し遅らせたとてどんなことともなる慣れはないとしても、約束は約束で、先方の行動に計画のつかぬことも多数起るかと思われた。
 這入って来た車夫が戸口から矢代を呼んだのは、それから二十分もたっていなかった。今夜は寺で彼が泊ることとのみ思っていたらしい老人たちは、矢代の立ち去る礼をしたとき、予想のごとく暫く意外な表情で物いいかねた様子が見えた。
「もう早やお帰りですか。お泊りもなさらずに。」
 浄瑠璃の老婆の矢代を瞶め問い質す強い口調には、まことに少し身勝手な覚えも、まだ消えぬ折とて、彼には火の刺さる厳しさだった。
「御親切はありがたいのですが、京都で友人が待っていてくれるものですから、遅らすと少し工合の悪いこともございますので。」
「それでも、たまたまお帰りなされたのに、そんなみずくさいこと申されて――」
「お蔭で都合よく用事もすませてもらいましたし、それに時間もどうやら間に合いますので。」
 車夫を待たせた気忙しさに寺への謝礼と、村人たちへの礼心を白紙に包む多忙なためもあって、矢代は調子の合わぬまごまごした挨拶をなおするのだった。
「御先祖さんのおられるところで、一晩もお泊りなさらんのですかのう。」
 黙っている老人連の中からまだ老婆だけは心外の意を露わに向けたてかけて来たが、好意を毒舌にして見せる手際も温く、矢代は、答えかねた窮地の底から、ひそかに門の前の車夫に援助を需む有様だった。そして、ようやく、老人たちに背を向けスーツを引きよせると、まだ何か云いかける老婆の方へ向き返って、
「今度はまア、お赦しを願います、この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりお礼に上ります。」
 と云って笑った。門前まで皆に送られた所で、車に乗ってから、矢代は梶棒の上るまで焔の中から救い上げてくれる手を見るように車夫の動作が待ち遠しく思われた。間もなく車が走り出した。そして、一同を後にひとり山を見上げたとき、彼は初めて、やはりここでも自分は終始旅の客だったと思った。自分にとって故郷はもう東京以外にはなく、そこへ向ってこれで刻刻近づき得られている自分だと思った。日暮の冷たさを含んだ風が山蔭から頬をかすめて来た。苗代の整った峡間の障子が、土臭を吸いとった高雅な風貌に見え、彼はこのときほど障子の白さに心牽かれたことはまだなかった。
「秋十年却つて江戸をさす故郷」
 江戸をたって、故郷の伊賀へ帰ろうとしたときに深川で作ったと云われる芭蕉のこんな句を、ふと矢代は思い出したりした。十年も江戸にいると、芭蕉の眼にも逆に江戸が故郷に見えて来たのであろう。と、そう思うと、矢代は異国にいたときに、これでこの地に棲みつけば、そこを故郷と思う人もさぞ多くなることだろうと考えたことも、今また不意に泛んで来たりした。しかし、家を一歩外に出たもので、胸奥に絶えず描きもとめているふるさと、今身を置く郷との間に心を漂わせぬものは、恐らく誰一人もいなかったことだろう。してみれば、その者にとって衣食住は仮の世界、さまよう自分の旅ごころこそ実の世界、と念うもの佗びた心情もあの草の中の障子の白さの中には棲んでしまっていると思った。そのほの白さは、胸奥ふかく沈めた旅の愁いの灯
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