のない誰もの旅の姿だったと、矢代はそう思い、村びとたちの話を聞くのだった。
「お墓のあるのは、これで、どちらの方ですか。」
矢代は墓地のないこの寺の境内が訝しく訊ねた。
「あんたさんところのお墓はな、そら、あそこに見える山ですが。」
傍の浄瑠璃口調の老婆が門の前方、真直ぐに見える丘を指で差した。さきから矢代はその丘をときどき見ていた。小松林のおだやかな丘の麓に見える一軒の人家が、記憶の底に残っている彼の家らしい位置だったからである。
「そうすると、あの麓の家が、僕のいた家らしいですね。すっかり御無沙汰していたものだから、夢の中のような気がしましてね。」
「あれまア、ひどいこと云いなさるわ。御自分のいられた家もお忘れで、他愛もない。」
老婆もおどろいたと見えて、ちょっと矢代の膝を打つ手真似をしてから優しく口に手をあてた。いったいこの地方は浄瑠璃の染み入った土地とは聞いていたが、それにしてもこんなに若やいだ身ぶりの老婆の肩から自然に出たのは、幼少に自分を抱いた記憶のためかと、矢代は何ぜともなく嬉しかった。
「あんたさんのいなさった家は、今は田になっておりますぞ。」
と、父と相撲をとったという老人が不意に云った。
「いやいや、あれはな、この人の祖父さんの家じゃ、この人は知りなさるまいよ。」
こう云い出したのは父と浄瑠璃を習ったという老人で、矢代はその祖父の家というのもかすかに覚えていた。祖父は矢代の生れた日に亡くなり、その家にいた祖母だけは彼はまだ記憶していたが、その二つの家の一つを売り父の家へ叔父一家の移り棲んだ顛末を瞭らかにすることは、若い矢代に不向きと気附いた様子も見え、浄瑠璃の老婆は怜悧にすぐ話を外に反らすのだった。
「あんたさん、これからたまには、お帰りなさるもんですぞ。なア、あんたさん、ここはな、あんたさんとは切っても切れぬところじゃによって、お墓もここへ建てなされや。これなア、もうし。覚えていなされや。」
ふと他から何か云いよって来た老人も二人あって、一時にその方へも向きかからねばならぬ矢代の膝を老婆はまたしつこく打った。この故郷の九州の地よりも、母の実家の東北地方の人のいぶきをよく浴びて来た矢代は、見たところ、父の里と母の里とはひどくまた違ったものだと思った。家督をつぐ相談に母方の叔父の貞吉の所へ矢代が行ったとき、貞吉は彼に、
「とにかくあの九州という所は妙なところだ。僕らの東北地方はたった一度悪事をすると、後は山ほど良いことをしても、もう受けつけないが、そこへ行くと、九州は過去を問わぬ。あれだから大西郷なんて人物が出たのだね。」
と、多少は矢代の肩身に幅を与えるつもりかこう云ったことなど、彼は今あらたに思い出された。過去を問わぬ。なるほど、ここは郷里も知らずに帰って来た自分に、今もこのように、手厚い呼吸を吹きかけて来てやまぬもののあるのを見ても、宗麟のむかしも同様ヨーロッパから「雲の波、煙の浪を凌ぎ、今この日域に来って貴き御法を弘む。」という風なカソリックの天国の福音を仏者の声音で吹き靡かせば、過去など論なく言葉のあやに随い、頭の芯も拍子をとって踊り出す情熱的な舞いごころも、どこより烈しかったことだろうと推測されて来るのだった。
本堂で若い和尚の経があって、それから矢代は村びとたちにつれられ墓場のある山の方へ案内された。田の中の細い路を行く途中に、また一人中年の農家の者が一行の群れに混った。この人は矢代の方へ進み出ると、低い腰で遅参を詫びたが、矢代はこの人も知らなかった。浄瑠璃の老婆は傍から、
「この人は、そら、あそこに見えるあんたさんのいられたお家の人ですよ。」と、矢代に訓えた。
「ああ、あなたでしたか。みなが御厄介になっておりまして。」
矢代は突然胸を衝かれて引き下る感じになり、あらためてその農夫の顔を瞶めた。身の緊った、天候の変化に敏感そうな細面の眼差の底に、技師のような綿密繊細な涼しげなものを含んでいた。矢代は農夫も変ったと思うよりも、この人ならいつまでも家を貸したい家主の気持ちの先ず起るのを覚え、前方の山麓に見える自分の家に眼を移した。
山を断り崩した赧土を背に、屋根の瓦の縦に長い側面をこちらに見せた二階家である。それは立派な家とは云いかねるものだったが、まだ誰も、あれを自分の物だと知っていてくれるもののないのが心寒く、その隙間に通うひそやかな風の中から、そっと瞶める彼の視線にも力が籠った。周囲のものが急に消え散った思いのする、明るい空洞の中の自分の家は、矢代の視線に堪え得ぬような風情でじっとこちらを見ていた。矢代は胸の動悸が昂まり鳴った。足も自然に早くなり躓きかけようとしたが、それでもまだ彼は瞶めつづけた。傷んだ物小屋の羽目板には、新しく繃帯ですぐ手当をしてやりたかった。土質の酸に
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