親戚になっている真新しい今日の事実も、ふと思うと、まだ嘘のような物足りぬ感じだった。しかし、この前こうして三人で会ったときより、親しさの濃度は争いがたく深まっているのも、却って、槙三を見る矢代の胸に遠慮の増す思いもつよくなり、彼はそれを素知らぬ風に装うにもとかく羞う気持ちさえ感じるのだった。実際、何かしら変っている一同の沈黙だった。
「いつか千鶴子さんからうかがったこと、ついそのままになって失礼しました。どうも僕には、あの集合論のことは難しくって――」
 矢代は横浜で東野らの船の入港を待つ間に聞いた、千鶴子が槙三から依頼されたという幣帛の切り方と集合論の相似の件につき、そのまま返事を遅らせていた自分の無沙汰を思い出して詫びたのだった。
「ああ、あれですか。」
 槙三も思い出したらしく笑った。
「ああいうことは、僕は、ただの暗示があるということだけでも良いと思うのですがね。馬鹿らしいと思えば、もう何もかも馬鹿らしくなる種類のことなんだからなア。」
 骨を抱いた身で、もう今は云うまいと努力しながらも、返事を遅らせた責任上、矢代はそれだけ云って今日は終りにしたかった。
「しかし、あのことは僕らにとっては、ただの偶然事だということだけでも、一つの点になるのです。何ぜかと云いますとね。」
 と槙三は矢代の方に向き変って来ると、曖昧さを赦さぬ青年らしい活き活きした眼もとで云った。
「僕の今、一番に困っていることは、数学の公理というものは、どこを信じていいかということなんですよ。例えば、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理と、球面上の同じ三魚形の和はそうではないといった公理とか、また、二つの平行線は相交らぬという公理が、無限の向うでは相交る公理になるとか、そういう風な数学上の根本の公理が、一つが正しければ他は不正だという風に、公理ではなくなって来ている場合のことに関して来ると、非常にもう困るのです。そうすると、やはりどうしても、僕はもう信仰を持たなくちゃおれないのですよ。僕は一番単純な公理を信仰しようと決心しました。それは伊勢でですが。」
 単刀直入といいたい明快さで、槙三はそう真理の問題に関して云った。矢代は膝の上の骨箱のことも忘れた。まことに一つの公理が二つになるという単一性の分裂に際して、その一方を決意しなければおられぬ数学者の行動には、今まで矢代の聞かない新鮮なものがあった。思考というものを心情にまで高めなければ、生の意義はない、と悟ったパスカルに似ている。
 またそれは数学のみに関したことではない、万事精神の世界に共通した真理の分裂に関する、今日の日本人の決定的な問題にも迫っていた。
「虚無的になれば、どんなに深かろうと結局は、どこまで行っても虚無的だろうからな。しかし、それはあなただけのことじゃないですよ。」
「そうです。それは虚無的になれば、どんなに深かろうと、何もないということですよ。」槙三はわが意を得たと云いたげに眼を光らせた。
「それで僕も、あなたが幣帛の切り方に注意されたのがよく分りましたね。しかし、むつかしいなそれは。」
 矢代はこう云いながらも、この槙三という兄を持ったカソリックの千鶴子が、傍にいて、これで初めて何か得たにちがいないと思い、また異う一方の部分を喜ぶのだった。
「幣帛が集合論に似ているということは、僕にはただ偶然だっていいのですよ。それで先日もお訊きしたかったのですが、今の数学は集合論につきるといってもいいのです。それも、この集合論の公理は逆説が逆説を生んで、真理が何んともならなくなって来てるんです。またその逆説がどこで停止するかも分らない有様なんですからね。実際、数学もこうなっちゃ、僕らはどこに信頼すべきか分りませんから、僕は苦しくってたまらなかったんですが、もう僕も覚悟を定めました。それでなければ、僕には自由な零というものが分らない。」
 悲槍に静まって行く槙三の面にも、乗り出て行くものの微笑がおだやかに漂って澄んでいた。疑うならば、公理を信じることを誓う場所を、どこにしようとも同じである。しかし、それを信じるからには伊勢にしたいと願った槙三の意気には、数学よりも幣帛に思いを込める祈りの高まりが感じられ、パスカルのように以後この青年に対う困難な勉学の場所も、矢代には推察された。それはもっとも攻撃に満ちた困難な道のうちの、また特別に難事な場所であった。矢代は、そこでまた微笑をつづけて行くであろう槙三を想像することは、何より今日の心愉しい、みやびやかなことだと思った。その平和なみやびやかさが良いのだと思った。
 西大谷で矢代と千鶴子は車から降り槙三と別れた。蓮池に懸った石橋を渡って納骨堂の石段を登って行くときも、矢代は稀に見る槙三の端麗な精神について千鶴子に賞讃した。千鶴子も槙三を認められた
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