いさえされて来るのだった。
「京都へはいつお発ちになって。」
「ちかぢか行くつもりです。」
「なるたけ早くお帰りになって下さいね。あたしもお邪魔でなければ、御一緒したいんだけど――お母さんきっといいって云うと思うの。でも、お宅の方の御都合もあるでしょうから、御遠慮さしていただいてもいいんですのよ。」
 千鶴子は足袋の筋目にパラソルの先をあてがい、前に蹲み込む姿勢で横の矢代の表情を窺うように云った。父の亡くなる前から一度京都へはともに行くのも、たしかに二人に勉強になることだという意味で、千鶴子たちに矢代は話したこともあったこととて、いま彼女からそう云われて返事に窮する筋合もなかったが、とにかく、この度びのは父の骨を携えての旅行であった。そのような常の約束とは性質の違う旅の日には、遊山のように浮き立って誘う気分にもなれず、無理にも随いたい意の彼女から出るまで、この返事は待つことにしたいとも考えられた。
「昨夜も実はそのことで、妹にぜひ連れて行けと駄駄をこねられましてね、京都までならともかく、九州の方へも行くとなると、僕も承諾しかねてるのです。」
「でも、お妹さんお伴したいと仰言るの、御無理もないわ。お連れして上げなさいよ。」
 千鶴子は矢代と幸子との間にあった昨夜の不明瞭な喰い違いの様子も敏感に察したらしく、場所には似合しからぬ唐突な笑顔だった。矢代は京都行きの決定についてはそのまま曖昧な気持ちを残し、それ以上はどちらへとも押し切ることを出来ぬこのような難渋も、以後家庭生活に這入れば山積して来るであろう重圧感を覚えたまま、さきから眺めつつつい忘れていた、千鶴子の清潔な白足袋の下の水面へ絶えずぶくぶく噴きのぼっているメタン瓦斯の泡沫を看守り、どのようなことも日の光りのもとで切り開かれぬことはあるまいと、彼の覚悟も自ら定って来るのだった。矢代は古沼の底に漸く足の届いた思いにもなり、「さア、行きますか。」と云って木椅子から立ち上った。そして、千鶴子にこの沼の睡蓮を見て何か思い起すことはないかと訊ねると、
「あッ、そうそう、あたしさきからあなたに云おうと思っていたところなの、ほら、ね、チュイレリイの――」
 と千鶴子は急に眼を耀かせて矢代を見た。
「モネー館。」
「そうそう、モネー館、あのときは蛙みたいに、まん中のベンチに坐って、二人でお腹を空かせていたの思い出すわ。ほんとにこ
前へ 次へ
全585ページ中488ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング