「あら、まだあなた聞いていたの。」
「早くお美味しいもの、持って来なさい。」と塩野は無遠慮な冗談を大きくドアの方に対って云った。この塩野の大声は、それまで客間に滞りがちだった窮屈さを一気に揉みほごして成功した。
「食べ物のことで思い出しましたが、パリの罷業のときは千鶴子さんと二人で、コーヒー一ぱいを飲むのに、随分苦労をさせられたことがありました。どこの店も戸を閉めていて、飲みも食べも出来ないんですよ。お蔭で胃が少し良くなりましたが、一番ひどい目に会ったのは僕らのようです。」
 まったくこんな無意味なことを矢代が千鶴子の母に云うのにも、相当の骨折りだった。先ず何より意味など持たぬことをと思い、食物の話などを選んだのだったが、急に千鶴子の母は、
「胃がお悪いんですの。」
 とびくりとした表情でひとり笑わず、問い質すように矢代を見た。なるほど、これは不慮の失策だったと矢代は思った。
「悪いというほどもないのですが、向うで日本食を少し続けて食べたときは、誰でも胃が悪くなるんですよ。そのくせどういうものか、一週間に一度は食べないと、日本で米にあたって来ている中毒を急に脱いでは、体を壊すと、まアそんなことが云われているのですね。しかし、事実、米を食べた日は胃が重くなって、少し憂鬱に黙り込むようになるのは、僕だけじゃないようです。やはり、その土地のものを食べるというのが、一番人体にはいいようですね。」
 無理に弁明したのでもなく、しかし、幾らかは弁解をまぬかれない、板挟みに合った感じで、矢代は、ただの客とは違う自分の位置の難しさを一層感じ、やはりこのような息苦しさは生れて初めてのことだと思った。
「そんなことどなたかにもうかがったようでしたわ。西洋人が日本へ来て洋食をいただいてると、だんだん頭が悪くなるんだとか、その方のお話、なかなか面白いこと仰言ってらっしゃいましたですよ。はア、そんなものかしらと、あたし思いましたが、そうでございましょうねえ。それでその西洋人の方、日本食をこちらでいただくようにしたら、御自分がお国にいらっしゃったときのように、また頭がよくお癒りになったとかうかがいましたわ。」
 千鶴子の母にしても、同様今のような難場に立ち合ったことなど幾度もないことは、彼女のそういう話し方の間のろい調子にもよく出ていた。矢代はこれでどちらも自分の欠点を蔽いつつ、しかも、漸
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