向うから出かけて来て一時間十法なら日本金にして二円五十銭であるから、破格に安い値であった。
「それはありがとう。」
と矢代は礼を云ったものの、久慈の値より負けられたとあっては自然に食事の費用で補いたくなるのだった。アンリエットは若芽色の皮の手袋をはめ、
「あたしの発音法はこれでまだ完全じゃないのよ。パリの人の発音はたいていはまだ駄目。やはり、一度ギャストンバッチの女優学校へでも這入って、正規の発音を習わなきゃ、信用出来ないわ。」
このパリの高い文化でさえがそうなのかと矢代は驚いた。
「そういうものですかね。しかし、日本にも日本語の完全な発音なんかどこにもないですよ。東京の者だって、つまりは東京の方言を使っているんですからね。」
アンリエットは先に暗い螺線形《らせんけい》の階段を降りて行った。後から矢代は降りるのだが、自然に眼につくアンリエットの首の白さも人知れず眺める気持ちは、不意打ちを喰わせるように感じられ彼は幾度も眼を転じた。しかし、螺線形の狭い階段は降りても降りても変化がなかった。絶えず眼につくものは階上からつづいて来たアンリエットのなだらかな首ばかりでありた。しかも、巻き降りている階段は長いので撃たれたように前に下っている首筋は、見る度びに眼のない生ま生ましい顔のように見え、矢代はだんだん呼吸の困難を感じて来るのだった。
「ドームで、久慈と千鶴子さんが待ってる筈ですから、あなたもどうです。」
千鶴子が傍にいればアンリエットは遠慮をするかもしれぬと思い、矢代はそんなに云ったのであるが、むしろ彼女は悦ばしげに、
「あたしが行ってもいいんですか。」
と訊き返した。
「どうぞ。」
二人は二列に並んだ篠懸の樹の下を真直ぐに歩いた。地下鉄の口からむっとする瓦斯が酸の匂いを放って顔を撫でた。矢代はこの気流に打たれると、いつも吐き気をもよおして横を向き急いでその前を横切るのである。
「あの地下鉄の入口の所の飾りね。あれは大戦前のものなんだけど、みなあのころはあんな幽霊のようなものばかり流行したのよ。人の頭もそうだったんですって。」
そんなに云われるままに、矢代は見るとなるほど入口は蕨のような形の曲った柱が二本ぬっと立っているきりである。
「あんな幽霊のようなものが流行るようじゃ、戦争も起る筈だな。」
「そう。あのころは幽霊の流行よ。有名なことだわ。」とアンリエ
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