た。あのことは昨夜帰ってから久木男爵と会った始終のことを、父には云わず母に矢代が話したのを、母はそのまま父に話したらしい。今から思うとそれは些細なことだったが、父にはやはり些細なことに響く筈もなく、家の空気が俄に大きく膨らみのぼった吉兆のように感じたにちがいない。それに妹の幸子も、いよいよ退院するという通知のあった二日後だった。
「久木さんは面白い人ですよ。世間の人の考えているより、僕はむしろも少し豪い人のように思いましたね。分りにくいのですよ。あの人の豪さは。」
 矢代はこう云っても、自分が男爵から享けた親切さを素として、好感を抱いた結果出た言葉だとは思えなかった。男爵の洒脱さの中には深さもあり、あの地位では持ちがたい謙虚さと、真面目さと、情熱とが細かく渦を巻いていたと思った。殊に何より矢代の心を明るくさせたのは、黙ろうとする自分をよく饒舌らせてくれたことだった。
「しかし、僕は困りましたよ。お父さんがむかし、久木さんの会社のお世話になったこと、どうしても云えなくってね。」
「あなた失礼なことしたんじゃないんでしょうね。お父さんそれを一番心配してらっしゃるの。」
「したかもしれないなア。」と矢代は云って笑った。
「お父さんは、耕一郎はときどき生意気なことを云うから、あ奴、また馬鹿なことを云いよったのじゃないかなアって、そうお云いよ。」
「しかし、あの男爵は、僕にぼろを出させて後悔をさせない人ですよ。そういう人はあまりいないですからね。それや僕だって、少しはいい気持ちになりますよ。」
「そんなことはあたしに云わずに、お父さんに云ってごらんなさいよ。」母は子の方へ一寸無意識に菓子を手でよせ、嬉しそうだった。
「おやじには駄目だ。僕が男爵と物を云ったことが、すでにもう無礼なことをしたと、思う人ですからね。僕がお礼を云い忘れたことなど話しちゃいけませんよ。ひどいお目玉だ。」
「それやいけませんね。そんなことなどしれちゃお父さん――」母は湯呑を上げ暫く子の顔を見守ったまま、どうしたことかふと黙った。
「この次お礼を云ったんじゃ、手遅れだし。どうしたのか昨夕は――まア、云わない方が、その場の礼儀にかなっているような気がしたものだから。」
 後悔というのでもなく、自分の失礼と感じたのでもない、しかし、黙っていたことが、今となっては気辛い味となって尾を曳いていることは確かだった。
前へ 次へ
全585ページ中418ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング